先日、2泊3日で岐阜県の郡上八幡に旅行してきました。


 郡上八幡には、大学一年の時ですから5年前の夏にも立ち寄ったことがあったのですが、貧乏旅行の途中であり、疲れと寒さで半死の状態でした。そのせいで当時の記憶がほとんどなく、今回再び訪ねてみても「懐かしい」とか「あれ、これ見たな」という感慨もなく、逆に言えばより新鮮な気持ちで再訪を果たすことができました。


 郡上から少し東に行けば上宝村双六という民俗学研究の聖地のようなところがあり、北の白山に続く道は白山信仰の一大街道でもあり、個人的にはそちらにも興味もあったのですが、やはり旅行として行くのなら観光地として有名な郡上八幡は良いところでした。


 (上宝村双六については、前田速夫『異界暦程』晶文社 第6章「魔法の谷」に詳しい。後者の白山信仰と白山街道については、白山信仰については散々研究されているのに、なぜか白山街道についてはほとんど研究されておらず、その意味で面白い。いわゆる白山信仰と賎民についての関連は、少なくともこの郡上以北の白山街道の地には確認できないのではないかと思われ、それゆえ研究が少ないのだと思う。しかし、考えてみれば白山のお膝元でもあり、関連性がないはずはない、と個人的には思っている。実際に郡上八幡より少し北に登った白鳥という街には、白山長滝寺、長滝白山神社、白山中居神社などが鎮座し、白山文化を観光の目玉にしている。もちろん、「負の歴史性」は巧みに隠蔽してはいるが。)


 郡上での旅行の詳細を述べてもあまり面白くもないので、個人的に面白く思ったことについて書こうと思います。


 2泊3日と短い滞在だったとは言え、ちょうど盂蘭盆会の盆踊りの期間に当たり、「郡上踊り」を生で見ることが出来ました。この郡上踊りが、実に圧巻だった。


 なんと、夕方6時からが踊り始めで、終わりは朝の5時なのである。しかも、その強行日程の踊りが、約1か月ぶっ続けで行われるのだ。失礼だが、アホとしか言い様がない。


 そしてこの踊りというのが、「ちょっと町興しでやってみました」みたいな中途半端なものではないのだ。普通、都市近郊のお祭りと言うと、商工会や商店街が中心になって行い、その他の地元住民はちょろっと露店に出るくらいのものである。「あー、今年もやってんな」と。


 しかし、郡上踊りはまったく違う。本当に老若男女すべてが参加し、しかもそれはむしろ深夜に及んで熱気を増すのである。その規模も巨大であった。ちょっと櫓を立てて、その近辺だけで踊るというのではないのだ。


 このように、郡上踊りに圧倒されてしまった私だが、同時に魅了もされた。


 しかし、硬い体と旅の疲れもあり、踊り自身にはほとんど参加しなかった。


 個人的に面白かったのは、(これは旅行から帰って調べたことなのだが)郡上踊りの歌の歌詞について、あの柳田國男が論じていたことである。


 郡上踊りの歌の中では「かわさき」「春駒」「げんげんばらばら」がとりわけ有名なようであるが、柳田はこのうち「げんげんばらばら」に注目したのである。


 この柳田が注目した「げんげんばらばら」の歌い始めである「げんげんばらばら 何事じゃ」に関する柳田の説を紹介するのはそう簡単なことではないが、ここで取り上げたいのは、これが「口説き」と呼ばれる歌の一つであることである。


 現代に「口説き」というと、女性を「オトス」時の用語だが、その語源になったのが本来の意味の「口説き」である。ではどういうものかと言うと、簡単に言うと、旅の最中の休憩所的なところで散発的に発生した歌会のことである。歌垣という名前の方が知られているかもしれないが、つまりは、旅をしてきた人々が男女に分かれて(もしくは職能別に分かれて)歌合戦をするのである。


 ここで面白いのは、歌会が盛り上がってくると歌の内容が突然「春めいて」来ることである。つまり、色歌になってくるのである。上等な下ネタと言えば良いであろうか。歌が「春めいて」くると、歌合戦は次第に「体を賭ける」ようになる。つまり、歌合戦に負けた女性は男性にその体を任せ、契りを結ぶのである。


 大抵地元の村には歌が得意な男性というのが居て、そういった男性がいつも歌に勝つものだから、そこに一緒に居る男衆も「おこぼれ」に預かれる。つまり、旅の女性を目当てなのである。これが歌合戦である「口説き」の実態であったことはつとに知られている。


 話が込み入ったが、「げんげんばらばら」はおそらくこの「口説き」歌の定番曲だったのであろう。口説きについては、宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫に詳しい。


 郡上の人がどれほどこのことを知っていて現在の郡上踊りを舞っているのかは知らないが、旅から帰ってきてこの柳田の説を知り、「へー、あの時の歌がねー」なんて思ってしまった。


 「げんげんばらばら」については柳田説を補助線にして述べてきたが、個人的には「春駒」と「かわさき」の歌詞についても思うところがあった。


 春駒というのは、一般には正月に行われる行事の一つである。


 冬の間じっと繋がれていた馬が、新春を迎えてようやく外に出ることができるようになる。運動不足だった馬は、「待ってました」とばかりに暴れるが、この元気一杯な馬の生命力を寿祝いで(ことほいで=言祝ぐ)行う行事であり、実際には藁で編んだ馬が人々に担がれ、町を練り歩くという行事である。


 この正月の芸事には、他にも大黒舞・千秋万歳(せんずまんざい)・舞々・獅子舞(ししまい)・神楽(かぐら)・人形まわし・鉦(かね)たたき・チョンガレ祭文(さいもん=唱文)・猿まわし・節季候(せきぞろ)・角兵衛獅子などの門付け芸があるが、すべからく差別された職業である。


 ちなみに、正月の門付けの藁細工や鏡餅なども、そのような意味合いを持っている。前者に関しては、行商(これ自身が蔑視されてきた職業であり、富山の薬売りが「穢多」として殺された事件などは有名である)のみがこれを売っていい特権を持っていたことが挙げられるが、私個人の経験としても幼少の頃は年末になるとどこからともなく行商が現れ、一軒一軒売りに来たのを記憶している。後者に関しては、鏡餅はトグロを巻いた蛇であり、蛇信仰とその後身である山岳信仰(白山信仰もこの一つ)と密接な関係にあるというのが通説になっている。


(余談:歌舞伎も能も身分外身分の職業であったことはよく知られているが、おそらくこのようなシャーマニズム的な要素を持った身振りから誕生した芸能である点で共通しているのであろう。とりわけ歌舞伎に関しては、江戸時代に公の歌舞伎座が出来て「身分解放」が行われるまでは、弊牛馬の堵殺が行われていた河原で舞われ、その死した動物の霊性を沈めんがために行われていたものであったことが分かっている。歌舞伎の一家として有名な中村家は、おそらくは現在は名古屋と大阪にある中村地区の出自なのではなかろうか。太平洋戦争時に連行された在日の人々が集住することで有名な京都宇治市にある「ウトロ地区」の強制移転のことが問題になっているが、この移転先の候補が大阪の中村地区であるということには、少し感慨深いものがありますね。自分の家はいわゆる部落でもなければ在日でもないが、少なくとも行政の在日に対する扱いの、日本古来の負の歴史を隠蔽すると同時に、在日にその負の部分を押し付けるやり方の非道さには相当な批判意識を持ちます。同じようなことは、千葉県の市川駅前の在日者が集住するエリアが「不法占拠」だとされ追放されようとしている動き、京都の東九条にある「崇仁地区(通称0番地)」のあまりの行政上の差別の動きにも言えます。上・下水道くらい通してあげなさいよ。)


 


 さしあたり言いたいのは2点である。


 第一に、郡上踊りの「春駒」は、本来正月に行うべきものであるということ。文化というものは形だけ残れば良いのであれば、そんなものは消えてもいいと思う。郡上の「春駒」は明らかにその歌の意味から離れている。もちろんお祭りなんだから楽しければいい、という考えは十分な正当性があるが、しかし、「春駒」に関する悲劇の歴史が忘れ去られ、単なる楽しいお祭りになるのはどうかと思うのである。悲しいことがあった時には笑って忘れようという決意めいたものがあったのに、その部分が忘れ去られたまま形だけ伝承されていくことには、私はそんなに無邪気に肯定する気にはなれないのである。ただし、このことについては、後に述べる予定の私自身の仮説(春駒レクイエム説とでもしておく)との関係から、再度肯定し直すつもりではいる。


 第二に、春駒という行事が今でも残っているのは佐渡島と沖縄だけと聞いていたが、そうではなかったこと。郡上にも生き残っていたのである。もちろん、この「春駒」は元々「さば」という曲名だったことからも、名残として残っていた「春駒」の風習を祭りに取り入れたのではあろう。しかし、「春駒」が郡上踊りの定番曲として定着していることにはかなり驚いた。


 ところで、「春駒が残っているのは沖縄と佐渡島だけ」と言うぐらいにこの二箇所は有名だが、以前に沖縄出身のゼミ仲間から面白い話を聞いたことがある。


 那覇には昔からの遊郭ゾーンがあって、今もそこは風俗店が立ち並んでいるそうなのだが、春駒はここでお行われるのだそうである。しかも、どうやらここの遊女(現代で言えば風俗嬢なのだろうが)がこの春駒を担いで練り歩き、それを群集は半ば嘲笑の掛け声を掛ける行事だというのだ。


 なるほど、佐渡島も流人という社会の周辺的存在の地であることを考えれば、友人からの那覇の春駒の話も分からなくはない。そして、春駒を含む門付け芸一般が差別の対象であったことも加味すれば、友人の話もある意味では「想定の範囲内」ではある。


 しかし、どうだろう。もっと深い意味があるような気がしてならない。そのことを郡上の「春駒」や「かわさき」の歌詞と関連付けながら考えてみました。ここからは、自説になります。妄想と言えば妄想なのですが、ある程度には説得力があると良いのですが。


 まず、郡上の「春駒」についてであるが、その掛け声は以下の歌詞である。


 ♪しちりょうさんぶの はるこま はるこま♪


 (七両三分の春駒、春駒)


 つまり、七両三分の値段で郡上の馬が買い取られて行った、それが悲しいという歌なのである。(ドナドナと同じパターン)


 そして、この「春駒」ともう一つの定番曲である「かわさき」には同じ歌詞が何箇所もあり、その共通点とは何かと言うと、郡上は馬の名産地であるという1点に尽きる。そして、この馬の名産地っぷりを誇りに思う気持ちが歌詞に織り込まれているのである。


 しかし、これは身売りのストーリではないのか、と私は思う。


 自分の娘ではあまりに直接的なので、それを馬に置き換えて娘を売らざるを得なかった悲しみを歌った哀歌なのではなかろうか。これはいい加減な話だが、馬を売るのに7両3分は高すぎる点、なぜ歌にまで歌うのかという点を考えると、「身売り」の信憑性は増すように思われるのである。


 もちろん、これは私の推測である。


 ただ、郡上踊りの歌の歌詞はネットや町のパンフレットに掲載されまくっているのに、その歌詞の意味はどこにも載っていない辺りにも、この地方の今では触れたくない過去が紛れ込んでいるのではないだろうか。


 そもそも、「春駒」の春は、やはり「春をひさぐ」とか「春歌」とかいう時の「春」であって、「花」と同じである。そして、「駒」についても、「こます」という動詞は元々は「駒す」だったのだろうが、ともかくも「こます」は目下や馬鹿にしている相手に「くれてやる」という意味である。つまり、「春駒」は「春(=体)をくれてやる」という歌と考えるのが妥当であり、この意味で友人から聞いた那覇の話も納得が行くのである。


 さらに重要なのは、娘を売る側である父親が生活するために仕方なく娘を売る訳だが、せめて歌詞の上では「くれてやる(=くれてやる)」と精一杯の強がり・ルサンチマンを重ねている点である。


 「春駒」の歌詞によると、売られた娘はテテナシゴも含まれていたようで、つまり父親の死んだ家の娘も売られたようなのである。


 遊郭に売られると、遊女は「子供」と呼ばれる。例えば、新宿にはかつて岡場所があったが、その遊女たちの無縁塔には「子供合埋碑(こどもごうまいひ)」と言うのがあり、遊女は子供と呼ばれていた。しかも、それ(=遊女)と分かるように子供の髪型を強制され、髪を結うことを禁じられていたのである。


 このことを知った上で、以下の「春駒」の一節を眺めるとどうだろう。


 ♪親のない子に 髪結てやれば 親がよろこぶ ササ 極楽で♪


 泣けて来ませんか?


 身売りされる親のいない娘さんを、最後に一度だけ、今後絶対に出来ないであろう髪結いをしてあげる、という意味なのではないか。


 もちろん、郡上産の馬の話のように見せかけているが、それは娘を売ることを「悲し過ぎて直接には言えない。しかし、忘れたくない」という矛盾した気持ちから馬が売られて行くストーリーに置き換えているようにしか思えないのである。(もしかしたら、あのドナドナもそんな歌なのかもしれませんね。)


 山間で農地の狭く、土が枯れた郡上にあっては身売りはそう荒唐無稽な話ではないのではないか。郡上では「水がきれい」を売りにしていて、水のキレイなところにしか住まない鮎を名産にしているが、鮎が住むような水のきれいなところは、逆に言えば水に含まれる養分が少なく、その近隣は田畑には適さないのが普通である。とすれば、この山間の貧農地帯であったと思われる郡上において、身売りがなかったと言う方が無理があるのではないだろうか。


 ほぼ同じ歌詞の「かわさき」にも興味深い一節がある。


 ♪郡上の八幡 出て行く時は 雨も降らぬに 袖しぼる♪


 涙が枯れぬほどの悲哀を歌っている。しかし、馬を売るのを商売にする人間が、馬への愛着からそこまで泣くだろうか。そう、郡上は藩のお達しで、馬の生産を奨励していたのである。食う物がなくて馬を売ったのならば、確かに悲しい。が、ここは馬の生産を奨励していた地域なのだ。


 以下、歌詞から「身売り」と思われる一節を抜き出します。


 

 ♪泣いて別れて いつ逢いましょか 愛しいあなたは 旅のかた♪


 どう考えても、馬との別離を歌っているとは思えないですね。


 

 

 ♪なんと若い衆よ たのみがござる 今宵一夜は ササ 夜明けまで♪

 

 これは「春駒」からの一節であるが、売られて行く前にせめてお客ではない男を教えておいてやろう、という親心ではないのか。出来るなら娘が思う男性と・・・。


 

 ♪忘れまいぞえ 愛宕の桜 縁を結んだ 花じゃもの♪


 これも泣けますが、「花」という言葉を敢えて歌詞に織り込んでいるのは「忘れないぞ、娘が花街に売ってしまったことは」という親の罪悪感の現れではなかろうか。



 

 ♪咲いた桜に なぜ駒つなぐ 駒が勇めば 花が散る♪


 売った娘が馬に乗せられて視界から遠ざかっていく時に、その馬が速ければ速いほど娘の姿が見えなくなるのも早くなる。女性として「花が咲く」年頃まで育ててきたのに、「なんで駒つなぐんだ」というルサンチマンも感じられる。



 また、柳田が注目した「げんげんばらばら」の一節はもっと露骨に、


 ♪駕籠で行くのはお軽じゃないか

  妾しゃあ売られて行くわいな

  主の為ならいとやせぬ

  しのび泣く音は加茂川か

  花のぎおんは涙雨

  金が仇の世の中か♪


 というのがある。


 おそらく、京都の祇園(加茂川のそば)に売られていく「お軽さん」という女性の姿を見た人が歌ったという設定の一節だろう。


 という訳で、私はこの「春駒」は身売りをテーマにした歌であると推測する訳である。


 先に、郡上の春駒の歌詞について知らないで形だけ残っている郡上踊りについて批判したが、それははあくまで春駒を含む門付け芸全般が差別の対象であったことを知らないで楽しいお祭りという形だけ残るのは如何なものかという気持ちからであった。


 しかし、この「身売り」説も考えるならば、当初から直接的な表現を避けようとしているのであって、それを現代の郡上の人々が忘れてしまっているとしても、それは批判できないのではないかと思うのである。いや、むしろ最早「身売り」をしなくても済むようになった郡上の生活を祝って、ただ楽しい祭りの一曲として「かわさき」や「春駒」が歌われることは喜ぶべきことなのではないだろうか、と思うようになったのである。


 最後に、これまら妄想を膨らませすぎなのかもしれないが少し付け足しておきたい。


 それは、那覇の話を聞いて思ったのは「なんで嘲笑を浴びても、遊女たちが春駒の行事をやめなかったのか」ということに不思議に思ったことである。


 我々は不合理なことは淘汰されていくのが当たり前であるという感覚を持って生きているが、それがなぜか過去のことになると、「伝統というものは合理とか不合理とは関係のないものだ」などと知ったような顔をする。しかし、長い歴史の過程においては、やはり不合理なものは消えてきたのであって、「昔の人は不合理も受け入れていた」と勝手に想像するのは、あまりに近代人の思惟の傲慢だろう。もしくは、近代的精神にどっぷり浸かっている我々が、歴史にそれとは違った精神を見つけたいという憧れの誤った歴史観ではないか。


 だとすれば、なぜ明らかに不合理な那覇の「春駒」が遊女たちによって受け継がれてきたのか。


 ここまで私は「春駒」を、送る側の歌として読み込んで来た。つまり、娘を売る親や、それを見送る恋人や地域の人々の哀歓を歌ったのが「春駒」だという解釈である。


 しかし、送られる側の歌でもあったのではないのか、と思うのである。


 つまり、遊女たちが自分を送り出した親を思って歌うパターンもあって良いはずだし、それが那覇の遊女たちが歌う「春駒」なのではないか。私は祇園などで芸者遊びをしたことはないが、彼女たちの歌も詳しく調べれば、もしかしたら「春駒」のような故郷の親を思った歌があるのではないだろうか。


 もしそうだとすると、どこぞやのお偉いさんが芸者遊びの作法に通じていたりするのを自慢する話は軽薄極まりないですね。「あの歌を知っているぞ」と粋がって「春駒」的な歌を要求しているのだとしたら、それはあまりに酷な話ではなかろうか。


 あ、でも最近の芸者さんって水揚げの時以外は売春の要素は少ないみたいだよね。それに里帰りも(物理的には)可能らしいし。