明日10月31日はハロウィン。もともとケルト人の祭りだったものを、カトリックの諸聖人の日という祭日の前夜祭としてキリスト教に取り入れられたものだと言われています(クリスマスやイースターなど、キリスト教の祝祭にはこういうパターンが多い)。もちろんJWでは、異教由来ということで激しく非難されているのは皆さんご存じの通りです。
ところで、何度かこのブログでも書いていますが、この日は1517年にマルティン・ルターが宗教改革の口火を切った日ということで、プロテスタント、特にルーテル教会では、宗教改革の精神を思い起こす日として記念しています。
宗教改革というと、贖宥状(俗に言う免罪符)への抗議や、「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」という標語がよく知られていますが、私が個人的に好きなのは、ルターが唱えたという「アディアフォラ」という考え方です。
アディアフォラとは聞き慣れない言葉ですが、もともと「ディアフェロー(διαφέρω)」というギリシャ哲学の用語がドイツ語になったもので、「それ自体善でも悪でもない、どうでもいいこと」という意味があります。新約聖書でもガラテア2:6の、「この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。」という箇所で使われています。
ルターはこの「アディアフォラ」を、宗教改革の論争の中で展開しました。カトリックが培い発展させてきた教会の伝統や慣習の多くを、聖書によって命じられも禁じられもしていない、それ自体よいことでも悪いことでもない儀式や慣習だとしたのです。当時のカトリックでは、それらが救いを得るために必須であるとされていましたから、これは大きな論争点になりました。
さらに宗教改革が進展していくと、今度は急進的な改革派が、聖書にない伝統や慣習は一切排除すべきだと主張し、これまた論争になります(そのためか、改革派教会の礼拝堂には像や絵画がなかったり、十字架さえ置かれていないこともある)。
「どうでもいいこと」のために喧々囂々の激論が交わされるというのも滑稽な話ですが、私はこの宗教改革者たちのこだわりから大切なことが学べるような気がしました。JWでもそうですが、あれやこれやといろいろ細かく決めているルールや取り決めは、聖書の解釈次第でどうとでも取れるような「どうでもいいこと」がほとんどです。それなのに、得てして人間はどうでもいいことがどうでもよくなくなり、そのことを巡って争いや対立が起こってしまうものです。でも、そういうことばかりに目が行ってしまうと、キリスト教で言えば福音のような、もっと大切なことが見えなくなってしまう。ルターはきっとそのことを危惧したのではないかと思います。
教会にしろ個人にしろ、それぞれが持っている伝統や習慣、個性の違いはアイデンティティを形成するものであって、尊重すべきものです。そこを否定すると、画一化された全体主義に陥ってしまいます。ですが同時に、そのような違いを「どうでもいいこと」に位置づけて、より大切な点での一致と調和を目指して行くのも、今の時代特に求められていることなのではないかと思います。宗教改革の精神のうち、「アディアフォラ」が私の一番のお気に入りである理由はそこにあります。
<参考URL>
http://www.ne.jp/asahi/church/sasebo/youshi_01_07.htm
ところで、何度かこのブログでも書いていますが、この日は1517年にマルティン・ルターが宗教改革の口火を切った日ということで、プロテスタント、特にルーテル教会では、宗教改革の精神を思い起こす日として記念しています。
宗教改革というと、贖宥状(俗に言う免罪符)への抗議や、「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」という標語がよく知られていますが、私が個人的に好きなのは、ルターが唱えたという「アディアフォラ」という考え方です。
アディアフォラとは聞き慣れない言葉ですが、もともと「ディアフェロー(διαφέρω)」というギリシャ哲学の用語がドイツ語になったもので、「それ自体善でも悪でもない、どうでもいいこと」という意味があります。新約聖書でもガラテア2:6の、「この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。」という箇所で使われています。
ルターはこの「アディアフォラ」を、宗教改革の論争の中で展開しました。カトリックが培い発展させてきた教会の伝統や慣習の多くを、聖書によって命じられも禁じられもしていない、それ自体よいことでも悪いことでもない儀式や慣習だとしたのです。当時のカトリックでは、それらが救いを得るために必須であるとされていましたから、これは大きな論争点になりました。
さらに宗教改革が進展していくと、今度は急進的な改革派が、聖書にない伝統や慣習は一切排除すべきだと主張し、これまた論争になります(そのためか、改革派教会の礼拝堂には像や絵画がなかったり、十字架さえ置かれていないこともある)。
「どうでもいいこと」のために喧々囂々の激論が交わされるというのも滑稽な話ですが、私はこの宗教改革者たちのこだわりから大切なことが学べるような気がしました。JWでもそうですが、あれやこれやといろいろ細かく決めているルールや取り決めは、聖書の解釈次第でどうとでも取れるような「どうでもいいこと」がほとんどです。それなのに、得てして人間はどうでもいいことがどうでもよくなくなり、そのことを巡って争いや対立が起こってしまうものです。でも、そういうことばかりに目が行ってしまうと、キリスト教で言えば福音のような、もっと大切なことが見えなくなってしまう。ルターはきっとそのことを危惧したのではないかと思います。
教会にしろ個人にしろ、それぞれが持っている伝統や習慣、個性の違いはアイデンティティを形成するものであって、尊重すべきものです。そこを否定すると、画一化された全体主義に陥ってしまいます。ですが同時に、そのような違いを「どうでもいいこと」に位置づけて、より大切な点での一致と調和を目指して行くのも、今の時代特に求められていることなのではないかと思います。宗教改革の精神のうち、「アディアフォラ」が私の一番のお気に入りである理由はそこにあります。
<参考URL>
http://www.ne.jp/asahi/church/sasebo/youshi_01_07.htm