創価学会2世から創価学会員へ


池田先生がお亡くなりになられたこと、

自分もとてもショックで、ニュースを聞いた時は涙が出ました。


「皆さん、朗らかにいきましょう」

「他人じゃない、自分自身の命を磨くんです」

「思いやりと感謝を持って、お父さんお母さん、兄弟、地域を大切に」


そんな言葉を優しく、時には強く。

時には偉人の言葉を用いて、法華経とはなんたるかを説いたり。


さまざまな目線があることを理解して、

悩みの解決法を外に求めるのではなく、

自分自身の心に求めるという最も根本的な教えを、私は池田先生はのスピーチや御書から学びました。


池田先生がご逝去される前にも増して、

メディアは

「公明党支持母体である創価学会の勢いがうんたらかんたら」

「選挙のゆくえがうんたらかんたら」

「岸田総理が大変悲しいとのコメントをうんたらかんたら」


そういう策略を持つ人も中にはいるとは思うが、

全員が全員そんなことを思っているわけじゎない。


安倍さんが亡くなられた時もそうですが、

人が亡くなったことに対して、

このような政治的報道に結びつけるメディアやネットの、デリカシーや愛の無さに、分かってはいたものの悲しい思いを感じます。


でも、こういう言われかたをするのって

私たち学会員にも責任があると思いませんか?


思い返してみて下さい。


池田先生は、大聖人は、

公布基金を必ず入れなさい。

期日までに何人折伏をしなさい。

高いお仏壇、仏具を使いなさい。

私を崇めなさい。大聖人を崇めなさい。

そうすることで不幸がなくなりますよ。


そんな言葉を一度でも言ったことがあるでしょうか?


ある時の海外訪問では、

現地の主たる宗派を尊重し、その慣習を真似る映像などもありました。

コミュニケーションとしてです。


このように海外の対話先でも、

相手を尊重する姿勢を保ちつつ、ご自身の信仰の経験と価値観をお話しされました。

そこに相手への強制は一切ありません。

そのお話や笑顔で交流されるお姿そのものが、

周囲の人へ希望や温かさを感じさせ、良い影響を及ぼす。


それが、本当の意味での「折伏」だとは思いませんか。


他人の信仰をあなたの手で変えようとすることは、

結果、単なるコントロールなのです。

十人十色という言葉、よく御書の勉強や先生のお言葉からも聞いたことありますよね。

人はそれぞれ、自分だけの物語を自分のペースで自分で創っていく必要があるのです。

それを少しでも変えようとした瞬間、それはコントロールに変わります。


あなたが純粋に法華経を信仰し、日々輝いて生き抜くことで

あなたの光に引き寄せられるように、心の底に迷いや悩みを抱える人が集まる。

そして「自分を信じる心」がいかに強く美しい人生に必要不可欠であるかを、

その姿を見た人が自分自身で学ぶ必要があるんです。


1人でも多くの人を入会させることが、世を救う折伏となる、というのは

恐らく多くの熱心な学会員さんが抱えている気持ちだと思います。


でも、そろそろ気付き、受け入れませんか。

コントロールは、更なるコントロールを生みます。

それが宗教戦争や紛争に繋がります。

相手の信仰先がいくら詐欺まがいの宗教であっても、

逆に無宗教であっても、

それはその人の魂にとって必要な道なのです。


あなたのその人の役に立ちたいという気持ち、

「私は合っていて、あなたは間違っている」

この気持ちが根本にありませんか。


「自分自身の人間革命」

法華経がうたうものはこれに尽きるのです。


そこまでいう私がなぜまだ学会員なのか?


私は法華経の教えが好きです。

自分を見つめる信仰。

ご本尊、諸天善神、守護霊、ガイド、ハイヤーセルフ、高次の自分


などなど

言い方が異なるだけで伝えようとしていることは同じで、

それらは神社仏閣のみに存在するのではなく、

自分自身の宇宙の中に顕現させるもの。

それをサポートする存在。


この法華経の教えが心の中にあったことで

私も色々な困難を乗り越えました。

とても楽に朗らかに生きられるようになりました。


多くの学会員さんが"折伏"の意味を誤解してしまっている。

ただそれだけの事。


むしろ社会からは一見仲間外れにされがちな

「特定の宗教にあえて入信する」方というのは、

みなさん、本当に辛い目に遭われた方ばかりです。

創価学会は病人と貧乏の集まり、と言われるのはこれなんだと思います。


要は、「人生に真面目に向き合おうとしてきた人たち」の集まりです。


だから、温かい人が多い。明るい人が多い。

闇を知っているからこその愛が溢れた人たち。


私はスピリチュアルも興味を持ち学びましたが、

結局有名なスピリチュアリストであっても「これは宗教ではありません」と言うのです。

その時点で既に「宗教」という概念を差別しているのです。


何も知らないでネット上の情報で物を言う人もいます。

「創価学会ってあれでしょ?寺に行くとバチが当たるってやつでしょ?」

と何度か言われました。

このあたりは恐らく、人から人が伝え合う中で話が変わってしまっています。


神社や仏閣に、いわゆる「神」といわれる高次元の存在が昔はいたものの

今はその場がネガティブなエネルギーで汚れてしまっている所が多く、

その殆どから高次元の存在が居なくなってしまった。

そもそも、最高の存在(=ご本尊)は自分の心の中なのだから

祈りを捧げるのは自分の心に対してである。

そういった考えからきているのです。

このあたりを知らない学会員さんも多いかと思われます。


だから、神社仏閣などに行かない方が良いとされるのは

他の宗教が汚れている、悪だから、とかそういうことではないんです。

(汚れたエネルギー場に力を与えてしまう意味で、お札の購入やお賽銭はNGといわれています)


この団体にいて触れ合う人たちは、

それぞれ本当にいろいろな価値観を持ちながらも

自分に対してと同じくらい

人の幸せを願う純粋な気持ちが皆さんあるんです。


積極的な活動はしてなくても、退会まではしない。

という人が多いのはこれが理由かと思います。


二世なら小さい頃だったり、

途中で入信した人なら入信当初に感じたことがあると思いますが、

先輩学会員さんって本気でこちらを思って行動してくれますよね。

それが人によって強要レベルのお節介になってしまったりするだけで。

そこも、私は性格の違いだと思っています。


人間が誰しも生まれ持っている、

繋がりたい、愛したいという本能。

創価学会という組織にはまだまだそれが生きていると思います。


だからこそ、私は創価学会を世間が誤解したままにしたくないのです。

もしこれをみて、何か感じてもらえる人が1人でもいるなら嬉しいです。


相手が創価学会を嫌いでも、法華経を信じなくても良いではありませんか。

あなたがあなたを本当に見つめ切って、

朗らかに笑って生きることが1番の使命です。


一人一人が輝き、その輝きを受け取った周囲が

自発的に輝き出す、

そうして光が広がっていく。


これが、本当の折伏ではありませんか?

もし純粋な心をたもつ学会員の皆さんが、

自分以外の誰かではない、

自分自身を見つめるための勤行唱題をするようになれば、

それはそれはとてつもなく大きな祈りと輝きに満ちた世界になることは間違いないと思います。


ここまでお読みいただき、有難うございます。

心を込めて。