どうしても抜け出せなかったことが今日整理できた。

​1. 押し寄せる違和感:なぜ私は「依存」から逃げたくなるのか

​最近、自分の中で大きな気づきがあった。

私は昔から、人から「依存されること」が本当に嫌いだ。

大病を患っている友人、リハビリ職としての患者さんや同僚。一般的には「頼られて当然」「寄り添うべき」とされる相手に対しても、相手の「すがりたい」「依存したい」という空気を察知した瞬間に、強い拒絶感を覚え、逃げ出したくなってしまう。

​「私は冷酷な人間なのだろうか?」

そんな罪悪感と戦いながらも、私の本音はこう叫んでいた。

依存ではなく、お互いが自立した上で響き合う『共存』がしたい」と。


​2. 炙り出された自分の中の「依存の種」

​依存されることを嫌う一方で、ふと自分自身の行動を振り返ったとき、胸がざわついた。

「私自身も、誰かに依存しているのではないか?」

​思い当たる節は、日常のあちこちに転がっていた。

  • 酷い環境で頑張っている自分に対して、心のどこかで「すごいよ!頑張っているよ!」という強烈な称賛を求めてしまうこと。
  • ​LINEの通知が来ると、つながりが途切れるのを恐れるようにすぐ返信してしまうこと。
  • ​ラリーが自分の言葉で終わるのが、拒絶されたようでなんとなく居心地が悪いこと。
  • ​インスタの「いいね」の数や閲覧数を、何度も気にしてアプリを開いてしまうこと。

​これらはすべて、「自分の価値や安心感を、他人の反応という『お賽銭箱』に投げ入れ、相手を使って満たそうとする」という、まぎれもない依存の種だった。

​3. 一番怖かったのは「薄情者」と言われること

​依存を嫌い、自立を目指そうとすればするほど、もう一つの恐怖が膨らんでいった。

「このままでは、私の優しさが摩滅して、冷たい人間になってしまうのではないか」

​さらにその奥底を覗いていくと、一番痛い本丸の感情にたどり着いた。

「私は、周りから『薄情者』という烙印を押されるのが、たまらなく嫌だったんだ」ということ。

​大病の友人には、心から元気になってほしいと祈っている。それは100%の本物だ。

でも、正直なところ、エネルギーを吸い取られるようなやり取りはしたくない。

世間の「正論」や「常識」という物差しで、自分の防衛本能を「薄情」と裁かれるのが怖くて、必死に優しい人の仮面を被ろうと、LINEやインスタの数字にしがみついていたのだ。

​4. 結びついた点と点:「冷たい自分」に極上の許可を

​そして、パズルの最後のピースがハマった。

「なぜ、私は『冷たい人』がこんなにも嫌いだったのか?」

​それは、私自身が「冷たい自分」を絶対に許していなかったからだ。

心の中の厳しい裁判官が、「冷たくしてはいけない」「寄り添わなければ価値がない」と自分を縛り付けていた。だから、境界線を引いて平気でいる他人が許せなかったし、境界線を引こうとする自分を「悪」だと責めていた。

​でも、それは違った。

私が「冷たい」と恐れていたその境界線は、冷酷さではなく、お互いの生きる力を信じる「凛とした自立」であり、「本物の優しさ」だったのだ。

​これからの私の美学(備忘録)

  • 私の最初の最大のファンは自分自身。 他人の評価に主導権を渡さない。
  • LINEは「キャッチボール」ではなく「手紙(投函)」。 自分の言葉で終わっても、私の世界は何も損なわれない。
  • 「冷たくてもいい」と自分に許可を出す。 自分の聖域(心地よい空間)を、他人の依存心で埋め尽くさせない。

私は受動的な存在にはならない。

=能動的な存在である。


他人の物差しで「薄情者」と呼ばれようと、私の純度は1ミリも下がらない。 

=私の存在は変わらない


これからは、「私は私の足で立つ。あなたもあなたの足で立てる。その上で、美しい景色を一緒に眺めよう」と言える、凛とした共存の世界を生きていく。

=共に生きる