続き


このプログラムに参加するに当たり、事前に英語の面接があった。見事合格して参加することが出来たわけであるが、内情はわからないが、思い起こすと、全員が合格してたのかもしれないと思える。しかしながら、高校の時には英語は大の苦手で、追試を受けてようやく及第点をもらったような人間であったけれど、何かのきっかけで、“英会話をこれからは習わんと駄目である”と思い、大学に入ってから毎日少しづく、夕方の食事時に行われるテレビの英会話番組を欠かさず見た。下宿先のおかみさんが理解ある方で、いつもこの番組を見させてくれた。その成果があったかどうかわわからないが、プログラム参加の合格が届いたのである。飛び上がって喜んだ気がする。

しかし、参加できることが決まっても参加費用がいるわけで、正確に覚えているわけではないが、確か10万円位だったと記憶している。この当時の10万円は、大卒の初任給が2万円位の頃であるから今でいう50万円位の価値があったのではないかと思われる。産経新聞奨学生として毎日朝夕の新聞を配達することで大学に行っていた関係で、毎月わずかなお小遣いが支給されていて、大学3年間で溜まっていた貯金が7万ほどあったと記憶している。足りないので、父親にお願いして3万円を工面してもらうことにした。後日、現金書留で送られてきた中に10万円が入っていた。思わず涙が出た。今ではすでに他界している、お米農家の親父が、どうして10万円ものお金を工面できたのか、胸が一杯になった。“おとうちゃんありがとう!”と心で叫んだ。

話しは横に逸れてしまったが、羽田空港に戻します。全員が到着したことが分かると、出国手続き、搭乗と進み、バスに乗り込み、飛行機が駐機している場所まで行く。時々テレビで見かける光景であるが、タラップを一段一段上がって行った。いよいよ飛行機の機内に入った。スチュワーデスさんが笑顔出迎えてくれた。どのような機種かは覚えていないが、日本航空であったことは間違いない。鶴のマークを施した尾翼。 入っていくと、両側に丸い窓がずらりと後尾まで目に飛んできた。“飛行機の中ってこんなんや”と思わず感嘆する。

私の席は確か窓際であった様に記憶している。円窓の外には他の飛行機が数機見えた。空港の母屋も円窓から見えていた。それぞれの搭乗者が思い思いに座ったり立ったりして自分と同じように珍しそうにきょろきょろする人もいた。そして、機内放送に合わせて乗務員たちが救命具の付け方、緊急時の脱出の仕方などをデモンストレーションした。救命具の付け方や脱出の仕方などは自分には全く縁がないものと思えていて、早く飛び立たたないのかなとはやる気持ちが強かった。

やがてエンジン音が大きくなり、ゆっくりと飛行機は進み始めた。空港の母屋は遠くなっていく、そして、滑走路の所定の位置に我々の飛行機が到着し、やがて轟音とともに飛行機は走り出し、滑走路が後方に飛んで行くがごとくスピードが増し、やがて、スーと体が持ち上がるように空に向かって飛び立った。何か不思議な感動を覚えた。飛行場がだんだんと小さく小さくなって行く。鳥になるとこんな風に見えるのか、と言った、たわいないことを思った。我が機は一路サンフランシスコへ向かった。日本海沿岸を沿う方たちで北上した。夕焼けがきれいであった。いつまでもいつまでも夕焼け空を左後方に見ながら真っ黒な空の中に機は突入していった。

やがて夕食が出される。はじめて食べる機内食。トレーにはビーフステイキの様なものや、お椀に入った、そば、円いパン、デザートと言ったものがトレーの上に所狭しと乗っていた。おいしかった。かなり満腹行く機内食であった。狭いいすに座ってほとんど動かないので、腹がすくはずもなかった。機内ではイヤホンで音楽を聴いたり、映画上映が行われたので見たりして時間を過ごした。そうこうする内に、シートベルトの着用サインがともり、間もなく到着の案内があった。エー、もう着いたのと言う感じであった。ところが着陸するのはアンカレジであった。アンカレジで給油して、サンフランシスコとむかった。

薄明かりの中を機はサンフランシスコへと向かった。行程中、夜ばかりであった。サンフランシスコの上空に来た頃には明るくなり、眼下に見える光景が、小さな石のように見える家々が目に飛び込んできた。“オー、アメリカに来た!”と、心の中で感嘆した。飛行機は徐々に機体を傾けながら高度を落としていった。サンフランシスコ上空を数回まわって、着陸態勢に入った。“いよいよアメリカだー!”と心の中で叫んだ。見る見るうちに周りの景色は近く迫ってきた。地上が目前に迫り、滑走路が後方に飛ぶように去って行き、轟音と、振動で、アメリカに到着・・・・。やがてゆっくりと機は滑走路から離れて、空港の駐機場に向かった。我が機はオークランドに到着。何かの事情でサンフランシスコから対岸のオークランドに変更になっていた。

体験記USA

時は1972年、大学3年生であった。初めて乗る飛行機、初めての海外、全てが初物尽くしであった。今の時代と違って、海外の製品、海外に手ごろに行ける時代ではなかった。まるで夢の中に居るようであった。また、日本は高度成長期を迎え、1ドル360円からドルと円の変動相場に代わる時期であった。この時期、1ドルが300円位の為替相場ではなかったかと思います。

6月の湿気を帯びた空気もむしろ弾む心に心地よいしめりっけを感じ取れた。羽田空港である、ここから飛行機に乗ってアメリカへこれから行くんだ!と言う、何か自分の立場が信じられない高揚感がみなぎっていた。/

このUSAホームステイプログラムの参加者がチェクインカウンターから少し貼られたところで集められていた。その中に私も交じって行った。全員が大学生であった。凡そ50名ほどの学生たちでごった返していた。係員が名簿を照らし合わせてチェックしていた。