函館&北方領土を開発した男『高田屋嘉兵衛』黒部亨著 読了 | 52歳で実践アーリーリタイア

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52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

 

 

<概要>

函館という街を実質いまのような街に造り、アイヌとの交流を深め、北方領土を開拓し、日露外交の先駆者たる淡路島出身の豪商、高田屋嘉兵衛の伝記。

<コメント>

兵庫県神戸市の兵庫津を周遊していたら、淡路島出身の高田屋嘉兵衛が掲示板などで紹介されていて、

 

(神戸市、兵庫津にて。2024年5月撮影)

 

2年前、函館を観光したこともあり、さっそく本書を読んでみました。

 

すると、高田嘉兵衛は、ただの淡路出身の兵庫津有数の豪商だけではなく、冒険家でもあり、開拓者でもあり、外交官でもあり、人権活動家でもあり、デベロッパーでもあったという、超人的な偉人だったのです。

 

(同上)

▪️函館の街づくり

函館には高田屋嘉兵衛にまつわるさまざまな場所がありますが、弟(金兵衛)が代を引き継いだあと、松代藩と松代藩と手を組んでいた旧来の北海道の既存勢力から貶められ、幕府から高田屋は、全財産没収(闕所という)され、その痕跡は跡形もなく消し去られてしまいました。

 

もちろん弟の金兵衛が、藩主の下屋敷を凌駕するような華美な御殿を函館に建てて対抗意識を燃やすなど、自業自得な面もあったにはあったのですが。。。

 

とはいえ、高田屋嘉兵衛にまつわる記念碑や銅像、高田屋本店跡地の碑、それに高田屋嘉兵衛の名を借りた最中も販売されているなど、函館の人たちは、嘉兵衛に対する恩義を忘れていないのですね。

 

函館市が嘉兵衛の没後150年から「嘉兵衛まつり」を開催しているのもその一環でしょう(出身地の淡路島でも開催)。

 

(現在の函館市:2022年10月撮影)

 

さて、江戸末期の北海道は、松前が唯一の大和人の拠点でしたが、松前の藩と既得権益で固まった既存の特権商人との取引による商売では、嘉兵衛にとっては思うように商売ができなかったこともあり、醤油の発祥地、紀州湯浅の豪商、栖原角兵衛の勧めもあって北海道の拠点を、松前から函館に移転し東蝦夷地を主に開拓することで商売を軌道に乗せます。

 

当時の函館は、昆布の収穫期に活況を呈する程度で、松前に比べればまだまだの街でしたが、嘉兵衛が拠点にしたことで人口は増え、交易は盛んになり、1802年には江戸幕府が「蝦夷奉行」を函館に新設するなど、松前に引けを取らない街に発展。

 

(復元された箱館奉行:同上)

 

嘉兵衛は、内地から大工などの職人を呼び寄せて造船所も新設。幕府統治中にここで建造された船は官船だけでも45艘に。

 

(函館港に入港するクルーズ船:同上)

 

食料も自給できるよう、農民を内地から呼び寄せ開墾。文化三年(1806年)の大火では、私財を投じて罹災者を救済し、将来の防火のために井戸を市内8ヶ所に掘削し、復興用の木材を東北地方から輸送して原価で販売するなど、函館の街のためにここまでやるか、というぐらい。

 

(函館山からの夕景:同上)

 

このように、今の函館は嘉兵衛あっての函館で、彼なくして昭和までの函館の発展はなかったかもしれません。

 

(函館山からの夜景:同上)

▪️択捉島(北方領土)の開拓

江戸時代末期、ロシア人は千島列島の最南端、ウルップ島にすでに定住しており、江戸幕府は択捉島こそが日本とロシアの接点で、早急に択捉島を開発しないと、ロシアの南下を許してしまう、として高田屋嘉兵衛に命じて、択捉島への航路を開拓するよう命じます。

 

幼少の頃から瀬戸内海の鳴門や明石海峡などの潮流で鍛えられていた嘉兵衛でしたが、択捉島と国後島の海峡越えは、相当に難易度が高かったらしい。

 

国後島側の北端の山に登って何日も調査した結果、この海峡には①対馬海流(暖流)、②親潮(寒流)、③樺太東岸を南下する北海の寒流の三つの潮流が複雑に絡み合って流れているため、北の方から大きく遠回りしていかないと、択捉島に辿り着けないと推測。

 

実際にその航路を辿ってその安全性を証明するとともに、択捉島のアイヌとの交流も成功し、幕府の役人を常駐させるなどまでさせて日本最北端の拠点としての択捉島を確保。

 

化学肥料のない時代、重要な肥料は「窒素・リン・カリウム」を含む鰯を干した「干鰯」でしたが、択捉島で獲れたニシンやマス・シャケのしめ粕は、イワシよりもはるかに上質で何倍もの肥料効果があり、エトロフ産のしめ粕によって、米の内地生産高は25%増になったといいます(幕吏の山田鯉兵衛)。

 

こうやって嘉兵衛は、択捉島への航路を開拓し、日本の北方領土を領土として実効支配するという偉業を成し遂げたのです。

▪️ロシアとの初めての外交交渉

江戸時代末期の1806年、択捉島でロシアのフヴォストフ率いる軍隊に襲撃されるという事件が起きました(フヴォストフ事件)。

 

1804年、ロシア帝国の皇帝アレクサンドル1世の命を受けたレザノフが日本との貿易を求めて長崎に来航しましたが、鎖国政策をとる江戸幕府はこれを拒否。これに怒ったレザノフは帰国後、武力でもって日本を脅すしかないと画策し、フヴォストフに命じて北方領土と北海道の侵略・植民地化を目指します。

 

ところが、レザノフはこの計画を皇帝に許可を得ずに実行してしまいそうになっっために、直前になって「襲撃」から「視察」にその目的を急変更。戸惑ったフヴォストフでしたが、その変更命令を無視して択捉島のシャナを襲撃。その間にレザノフも急病死してしまいます。

 

この襲撃によってシャナの日本人町は壊滅(間宮海峡で有名な間宮林蔵もいた)。この際ロシア人は和人には厳しく、アイヌ人には温情をもって接したといいます。アイヌ人を味方に引き付けて倭人と分断させようと考えたのでしょう。

 

この5年後、またディアナ号のゴローニン艦長率いるロシア人が北方領土にやってきます。フヴォストフ事件で懲りていた日本は、ゴローニンが強引に国後島に上陸してきたので、一応日本側は最大限に警戒しつつ食事を用意するなどして接遇したものの、鎖国政策をとる幕府の命に従って松前に移送し幽閉。

 

このゴローニンを解放すべくやってきたのがゴローニンの部下リコルド副長で、リコルドとの交渉を任されたのが嘉兵衛だったのです。

 

結局、リカルドと嘉兵衛の交渉により、ゴローニンは解放されるのですが、その間の嘉兵衛の誠実なスタンスは、ロシア人たちに感銘を与えます。一方で日本とロシアの初めての本格的な外交交渉の場にあって、有効的にその交渉を成し遂げたのは、ロシア人の側にも誠実な姿勢があったからでしょう。

 

このように歴史が教えるのは、傑出した人格備わったリーダー同士で関係を構築・交渉していれば、ウクライナのような問題はおきなかったかもしれません。

 

 

以上、兵庫県に行って高田屋嘉兵衛の存在を知りましたが、結果として北海道の歴史を勉強することになり、次回はまた北海道に行きたいな、と思ってしまった次第です。