『日本の古都はなぜ空襲を免れたのか』吉田守男著  感動の読了 | 52歳で実践アーリーリタイア

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52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

 

 

<概要>

「京都は終戦まで原爆投下目標だったから空襲を免れたこと」。「京都は文化財が豊富だから空襲されなかった、という事実無根の《ウォーナー伝説》を事実として流布した発信源はGHQだったこと」を詳細な史料と証言・調査で解明した画期的な著作。

<コメント>

10月からの京都フィールドワークのため『京都府の歴史』を通読。

 

 

この中で「なぜ京都は空襲されなかったのか?」については、京都は原爆投下目標の候補だったから、との驚きの記述を発見。

京都市の場合、1945年1月16日の東山区馬町、6月26日の上京区出水など、いくつかの空襲があったが、他の大都市と比べるとその規模は小さい。しかし京都の空襲被害が小さかったのは、アメリカが日本の文化財を保護するために爆撃をひかえたからではなく、京都が原子爆弾の有力な投下目標の一つだったからである。こうした事実があきらかにされたのは最近であり(吉田守男「京都小空襲論」『日本史研究』第251号)、歴史的事実の重さをわれわれに訴えている。

『京都府の歴史』323頁

自分自身も親から聞いて「京都は文化財が豊富な歴史的都市だから空襲されなかった」としか思っていなかったのですが『京都府の歴史』によれば「そうではなかった」と書いてあったので、そのネタ元となる本書『日本の古都はなぜ空襲を免れたのか』を読んでみたら、本当に違っていたのですね。

 

しかも一般に流布している空襲回避の要因「文化財保護説=ウォーナー伝説」は、その源流を辿れば「GHQの宣伝工作」の一環だったわけで、歴史や京都、原爆、戦争に興味のある方にとっては、必読の著作です。

▪️なぜ京都が原爆投下の候補都市になったのか?

アメリカ軍の日本への原爆投下の目的は

*日本の戦争遂行能力を完全に破壊すること

*敗戦を受け入れさせること

の他、

原爆という新型兵器の威力や効果・影響を測定すること

でもありました。

 

というか、原爆投下都市を選ぶにあたってはこっちの条件の方が優先されていたのです。原爆が一体どのような結果をもたらすのか、客観的に詳細に調査するための「実験台」となりうる都市を条件に選定したのです。なんとも恐ろしい非人道的な条件なのか、と今更ながらに怯えてしまう。

 

それではなぜ京都が候補になったのでしょう。米軍の目標選定委員会によれば京都こそ最も理想的な投下目標だとして以下の六つの理由をあげました。

①100万の人口を持つ大都市

②戦時下で罹災工業がこの年に流れ込んできており、軍事目標を持つ

③市街地の広さが東西2.5マイル、南北4マイルあり、人口密集地が広い。

④日本人にとって宗教的意義を持った重要都市であり、この破壊が日本人に最大の心理的ショックを与えることができ、その抗戦意欲を挫折するのに役立つ。

⑤三方を山に囲まれた盆地であり、爆風が最大の効果を発揮しうる地形を持っている。

⑥知識人が多く、原爆の何あるかを認識した彼らが政府に早期降伏を働きかける期待が持てる。

⑦まだ爆撃による被害をこうむっていない。

本書91頁

 

以上のうち、⑦の爆撃されていない、というのは、8月15日までずっと原爆投下候補だったからこそ、大規模な爆撃は敢えて禁止されていた、ということです。つまり原爆投下候補地には空襲はあえてしなかったのです(詳細後述)。

 

ちなみに広島も、原爆投下まで大規模な空襲はなく、当時は皆なぜか不思議がっていたそうですし、当初は投下目標の一つだった横浜も、候補から外されたその翌日(1945年5月29日)に、東京(同3月10日〜)や大阪(同3月13日〜)の大空襲から大幅に遅れて、大空襲の被害に遭っています。

 

 

実際に広島では「なぜ空襲されないのか」と噂が広まり、

広島にはサンフランシスコやロサンゼルスに親類縁者を持つ者が多く(移民のこと)、その親類縁者がルーズヴェルト大統領に対して広島を爆撃しないでくれと陳情したというのである。これに対して大統領も親善のゼスチュアとしてそれに同意したのだといううわさが権威ある筋から聞いた”うちうちの話”として流布されていた。

本書130頁

と根拠のない噂が広まっていたわけで、現代のコロナにも通ずる陰謀論の類いは、いつの時代も同じなんだな、と思います。

 

一方でうわさを信じて住民を一斉疎開させたのは新潟市

 

広島、長崎に原爆投下され、次はどこか、となった時に新潟も港への機雷攻撃を除いては大規模な空襲がなかったわけで、なぜ新潟がこれまで空襲に遭わなかったのか、それは原爆が投下される可能性があるから、と推測。

当時、新潟県庁の職員が東京で、あるうわさ話を聞きつけてきた。それは、これまで空襲がない都市は「新型爆弾」でねらわれている、というものであった。このうわさ話を信用した県知事の判断により、内務省の反対を押し切って、右の緊急措置をとったという。租界の移動のために、国鉄は無料で市民を輸送、疎開者には宿泊施設まで提供したと言われている。

本書188頁

単なるうわさであっても、根拠を伴った確実性の高いうわさであれば、多数の人を救うことができる、ということでもあり、この辺り、判断は難しいところです。

 

上表のように実際に新潟が原爆投下目標になっていたのは事実。日本が仮に1ヶ月降伏の判断が遅れていれば、新潟も京都も原爆が投下されていた可能性が高いのです(詳細後述)。

▪️なぜ京都に原爆が投下されなかったのか?

なぜならスチムソン米陸軍長官が「戦後、日本をアメリカの味方にしたかったから」となります。

 

1945年8月初旬にソ連が日ソ不可侵条約を無視して日本領に侵攻しようとしていた情報を掴んでいたアメリカは、日本が敗戦した後の戦後処理にあたって、実際に占領するソ連・アメリカ双方に対し、日本がソ連の味方につくか、アメリカの味方につくか、に関して、できるだけアメリカの味方になってもらうよう、考慮したというのです。

 

京都に原爆投下してしまうと「大都市にして日本の古都である」という、その影響度の大きさから、京都を被爆地にしてしまうとアメリカの評判を落としかねない恐れがある、とスチムソンが判断したからです。

スチムソンは、京都を原爆によって全滅させた結果、生ずる恐れのある日本人の反発が間接統治下の占領政策の円滑な遂行を妨げ、ひいてはその失敗が戦後アメリカの<歴史的地位>にとって汚点となることを恐れていた。

本書170頁

だったら「広島や長崎はいいのか」と思ってしまいますが・・・

 

このように、アメリカは戦後の国際情勢に鑑みて、京都に原爆を落とすのは、避けるべき、としたのですが、この場に及んでも、現場の責任者である陸軍戦略航空司令官アーノルド大将や現場の原爆投下責任者グローブス少将は、京都除外に反対しており、除外の最終決定は7月12日過ぎ。そして京都の代案として決まったのが長崎だったのです。

 

この結果、7月25日に発令された原爆投下命令では①広島、②小倉、③新潟、④長崎、が投下候補となりました。

 

ところが原爆投下専門部隊のパイロットたちに、これら4目標を示したところ、新潟はあまりにも遠いのと、目標が小さすぎるので、除外することに決定されたとのこと。それが8月1日。

 

ギリギリまで投下目標は、決まっていなかったのです。

▪️京都は、なぜ空襲を免れたのか

しかし、「京都除外」のこの決定は原発の1・2回目のみであり、アメリカは日本が降伏するまで継続的に原爆を落とそうと予定していました。

ポツダム宣言から帰国したトルーマン大統領は8月9日午後10時からポツダム階段に関するラジオ報告を行った。・・・われわれは、日本の戦争遂行能力を完全に破壊するまで原爆を引き続き使用します。日本の降伏のみがわれわれを思いとどまらせるでしょう。

本書202頁

2回で終わったのは、単純に日本が8月15日に降伏を受け入れた(正式調印は9月2日)からであり、3回目の原爆は、8月15日にはB29に積まれており、8月17日か18日以降の好天の日に投下される予定だったのです。

 

そしてその目標は、京都の可能性が高かったのです。

 

本来京都が原爆投下候補から外れれば、横浜同様、即座に大空襲に見舞われるはずですが(横浜は除外決定の翌日に大空襲に遭う)、そうはなりませんでした。

 

というのも上述のように現場サイドは、いまだに京都を候補地から外していなかったからです。実際に広島への原爆投下後の2回のリハーサルは、双方とも京都を想定したリハーサルだったことが著者の調査によって判明。

 

したがって3番目以降の候補として、依然京都はリスト・アップされており、だからこそ、8月15日の終戦まで空襲されなかったのです。

 

以上の成り行きについて著者が簡潔にまとめています。

三発目の原爆は投下される寸前にまできていた。京都案をめぐってアメリカ陸軍の指導層内部に対立があり、陸軍長官の決定を半ば無視して京都を三番目以降の投下目標として温存ずる軍人たちがおり、京都への投下練習が着々と積み重なれていた。このような状態で戦争が終結した結果、京都は爆撃禁止の状態におかれつづけたため、結果として、本格的な空襲を免れたのであった。原爆投下目標として、最後の最後までねらわれつづけていたことが、空襲がないという結果を生み出した真相だったのである。

本書207頁

▪️なぜ、奈良・鎌倉は空襲を免れたのか

では、京都に次ぐ古都ともいってよい「奈良」「鎌倉」はなぜ大規模な空襲に遭わなかったのでしょうか?

 

これは単純に「空襲対象の優先順位が低かったから」となります。

 

その前提として、日本への爆撃スケジュールは以下の通りとなっていました。

第一期(1944年11月24日~45年3月9日):軍需工場を主要な目標とした精密爆撃

第二期(1945年  3月10日~     6月15日):大都市の市街地に対する焼夷弾爆撃

第三期(1945年  6月16日~     8月15日):中小都市の市街地への焼夷弾爆撃

本書103頁編集

ちなみに中小都市爆撃目標の順位を決める基準は、

①建物が密集しているかどうか、燃えやすい建物かどうか

②軍需工場があるかないか

③輸送施設があるかどうか

④都市の大きさと人口の多さ

⑤レーダーによる爆撃が可能かどうか

本書138頁

だったので、いわゆる文化財保護は完全に無視されています。奈良も鎌倉もともに特別な軍需工場があるわけでもなく、6万人以下の小都市だったなど、優先順位は低い。

 

実際、奈良は当時人口5.7万人で80番目、鎌倉は4万人で124番目にリスト・アップされていたのですが、8月15日までに爆撃完遂したのは広島・長崎を除く64都市まで。

 

したがって奈良も鎌倉も空襲を免れたのです。奈良や鎌倉は古都で文化財が豊富だったから空襲を免れたのではなく、単純に優先順位が低かったから免れたのです。

 

▪️「文化財保護説」はGHQによる宣伝工作の一環だった

ウォーナー伝説とは、京都・奈良などの古都を米軍の空襲から救ったのは日本文化の専門家ウォーナー博士であり、それは日本の文化財を保護するためであったという伝説。

 

この伝説は事実として戦後流布され、博士自身1955年に日本政府から勲章(勲2等瑞宝章)授与され、京都市長か感謝状が間接的に出され、1955年に博士が亡くなった折には、奈良県が追悼式をするなど、その功績が日本中に浸透。

 

ただし博士本人は

「それはただ噂だけであって自分がどうこうしたのではない。アメリカ政府が(マッカーサー)司令官と密接な協議をして行った政策である・・・」(京都新聞1946年5月26日付)。

「京都、奈良のことについては、それらの都市が空爆を免れたということについては、合衆国の政策であって、私自身の責任ではありませんからこれは申さないでください。」(『世界文化』1946年10月号)

本書41頁

とのように誠実な態度で否定していたのではあります。だったら勲章授与を辞退すればいいのに、とも思ってしまいますが・・・

 

それでは実際はどうだったのか、というと、日本へのアメリカ的世界観・文化・慣習の同化政策をになっていたGHQ配下のCIE(民間情報教育局Civil Information & Education)に所属する日本学者にしてウォーナーの教え子であったヘンダーソン中佐が、わざわざ部下を集め会議まで開いて、ウォーナーの”美談”が”間違いのない事実”であることを確認。

 

この報告を日本の美術評論家矢代幸雄に情報提供し、矢代が朝日新聞に記事を掲載させるところから日本全国に流布されていった、というのが真相。

 

矢代の他、志賀直哉や柳宗悦などの文化系著名人もこれに加わったというから、一般国民が信じてしまうのも当然だったと思います。