■西欧の価値観「普遍的」か
今日の朝日新聞を読んでいたら、佐伯啓思氏の上の記事「異論のススメ:西欧の価値観「普遍的」か」と称して、普遍的価値観があたかも西欧固有の価値観であるかのように論じていることに強い違和感を感じてしまいました。
さて「普遍的価値」という概念は、最近日本の外交において頻繁に使われていますが具体的にはどういう概念なのでしょうか?
外務省のHPによれば、普遍的価値とは「自由、民主主義、基本的人権、 法の支配、市場経済」のこと。
佐伯氏のいうように確かにこの概念は、歴史的には西洋の近代化の流れの中で、西洋近代哲学が創造した概念だというのはその通りだと思いますが、だからといって西欧固有の概念というわけでもありません。
全ての人々が自分の意思をできるだけ実現できるよう、一人一人の基本的人権を尊重し、民主主義のしくみによって法を整備し、成立した法の支配によって公正な社会にし、自由な市場経済によって自由な経済活動ができるようにしようとしているのですから、誰にとっても普遍的価値があるわけです。
■普遍的価値は「手段」であって「目的」ではない
ただし、ここで誤解されやすいのですが、普遍的価値は、手段であって「私たちは何をすべきか」という目的ではありません。
自由の前には当然「何をしたいのか」があって、それは何を選択しても公正なルールの中においては「なにをやってもいいですよ」ということであって、普遍的価値観は文化や歴史を背負っているわけではありません。多様な文化や歴史観を受け入れるためのツールでしかない。
だって自由なんですから、何をしてもいいわけです。
ロシア的価値観を信奉してもいいし、ロシア正教を信仰してもいいし、カトリックを信仰してもよい。もちろんムスリムになってもいいし無宗教でもいい。
ロシアの文化を愛好してもよいし、西欧の文化を愛好してもよい。
普遍的価値とは、誰もが気持ちよく生きていけるよう、ルールを整備しましょう、ということだけです。
極論すれば、普遍的価値で成立した社会においては、独裁的社会を作ってもいいわけです。
その社会は企業でもいいし、宗教団体でもいいし何でもよい。実際、独裁的なオーナーのもとに存在する企業も数多くありますし、宗教団体は教祖の独裁そのものです。
それでも普遍的価値観の世界においては、社会のルールさえ守っていれば、その社会は受け入れられ、なんら問題はありません。著者のいう「ロシア的メシアニズム」が味わいたいロシア人がいれば、民主主義国家としてのロシア共和国の中で、そのような団体を結成すればいいだけです。
ところが専制国家になってしまうと、全員が「ロシア的メシアニズム」の価値観を受け入れざるをえなくなり、国民から選択肢を奪ってしまうことになるのです。これは社会主義のような統制経済も同じです(だから市場経済が大事だと言っている)。
したがって普遍的価値は歴史的な背景から西欧固有の価値観だというのは、中国や北朝鮮、ロシアをはじめとした専制主義国家に住む人びとの「自由でいたい」という気持ちを無視した非常に危険な思想。
■普遍的価値を受け入れている国連憲章
第二次世界大戦の戦勝国による国連の基本的価値観として掲げられている「国連憲章」は、普遍的価値観となんら変わらない価値観を加盟国間で共有しよう、という内容です。地球上の多くの国がタテマエ上は、目指すべき方向性としてみな、この国連憲章に合意しているのです。
「われら連合国の人民は、われらの一生のうち二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念を改めて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること、・・・」
国連憲章前文(黒字部分は私)
冒頭のような記事を書いてしまうとあたかも普遍的価値が西欧固有の価値、のように誤解されてしまいます。普遍的価値は国連が確認した世界共通の価値なのです。
したがってこの記事は「異論のススメ」ではなく、明らかに「誤った論のススメ」です。
人権に対して強いこだわりのあるはずの朝日新聞がこんな記事を載せてしまうのですから、とても悲しい気分になってしまいます。
■普遍的価値に優先するもの
もちろん普遍的価値は万能ではありません。国連憲章が謡うような普遍的価値が全地球に広まったとしても、全地球人が幸せになれるわけではありません。
残念ながら普遍的価値は、経済的自由(脱貧困など)や治安・平和は保障しません。
3年前にここでも展開しましたが、人間にとって一番大事なのは「経済的自由」や「治安&平和」であって、普遍的価値はその次です(以下では普遍的価値を「近代市民社会の原理」と呼称)。
経済的自由や治安については、民主化後の東欧がなかなか経済発展しないことやアラブの春でのチュニジアなど、なかなかうまくいかない国も多くあります。
逆に専制国家のなかでも、経済的自由や安定した治安のよい社会を手に入れつつある中国などの成功事例もあります。しかし、脱貧困や安定社会の先の中国人には政治的自由はありません。国家に逆らった時点で反体制的とレッテルを張られ、拘束されてしまうのです。
香港の事例をみれば、それはよく理解できるはずです。「普遍的価値は西欧の価値だから香港人には向いていない。中国共産党の価値のほうが合っている」と私たちは彼ら彼女らに言えるでしょうか?
人間は基本的に自由を求める存在(ルソー)であるならば、脱貧困の後は必ず自由を欲するはずです。
脱貧困に達していなくてもミャンマー国民のように公正な選挙をすればほとんどの人たちが軍人による独裁政治を否定する人たちもいるという事例もあります。
■「法の支配」という普遍的価値
かといって、アメリカはじめとして西欧諸国のスタンスも決して褒められるべきではありません。
残念ながら世界の半分以上が専制国家である、という現実を踏まえると、これ見よがしに普遍的価値を専制国家に要求しても現実的ではありません。
ステップを踏むべきで、まずは国際法準拠などの「法の支配」をまずは優先すべきです。民主主義を前面に出してロシアのウクライナ侵略を批判してしまうと、世界の半数以上の民主国家でない国家は賛同しにくいからです。
日本も、まずは現状変更批判・国際法違反を根拠に国際社会にロシアの蛮行を訴えかけるべきではないかとおもいます。