江戸時代のアーリーリタイアとは? | 52歳で実践アーリーリタイア

52歳で実践アーリーリタイア

52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

江戸時代に定年はありません。したがって定年より早い、つまり「アーリー」という言葉自体は存在しませんが、早々に家督を子供に譲って、リタイアする人(=隠居)は多かったようです。

 

 

元禄期には、裕福な商人が40歳前後で僧体となり、楽隠居することが流行ったらしい。江戸時代は「60歳」からが老人という認識だったらしいから、今が70歳以降が老人だとすると、当時の40歳は今の50歳ぐらいの感覚か。

 

江戸の人たちは、人生の目標を「老いの楽しみ」におき、若いときはには身を慎み、懸命に働いた。老後、どのように楽しめるかに、大きな関心を抱いていた。

 

そうである。とはいえ、今みたいに年金があるわけではないので、

 

隠居するときに、土地や財産の一部を隠居分として残しておくのが普通だった

こともあれば、

 

 

で紹介していたように隠居料を実家からもらう場合もあるらしかった。

 

いずれにしても裕福な武家や商家でないと金銭的余裕もなかったので、ほとんどの人は死ぬまで働いていたと思います。楽隠居できたのはほんの一部の大金持ちだけでしょう。

 

また、江戸時代には幕府が儒教を盛んに取り入れていたので「目上の人を敬う」「親孝行を尊ぶ」習慣もあったでしょうから、一旦隠居したとなれば、大事にされていたのだと思います。

 

さて、御隠居になったら、さあ何しよう、ということでは人それぞれだったようです。俳句を嗜む人もいれば老人会でダラダラする人もいる。

 

一方で、「やっとこれで自分のやりたかったことができる」として隠居後に活躍する人も多数。中でも伊能忠敬は図抜けていて、養子に行った先の佐原の伊能家では、酒造に米殻の取引、薪問屋などを開き、落ちぶれていた家を見事に立て直したという。

 

そして本来自分がやりたかったこと、つまり「天文学」を勉強すべく江戸に行き、天文学の一環で地球の緯度や経度を実際に測りたくなって北海道に行き、この流れで日本地図を作ってしまったという(完成をみずに亡くなりましたが)。

 

他には、40歳で隠居した向島百合園の生みの親「佐原鞠塢(さはらきくう)」、京都奉行の目付まで昇進したのち、40歳で隠居して文筆生活を送り、壮大な随筆「翁草」を著した「神沢杜口(かんざわとこう)」、大工の棟梁を40歳で辞めて落語家になった「烏亭焉馬(うていえんば)」などなど、しっかり現役で働いて財をなし、本来自分がやりたかったことをやり遂げようとした先人たちは、私の人生の師匠かもしれません。