「金沢」の風土 | 52歳で実践アーリーリタイア

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52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

金が取れた沢から命名された「金沢」という地名。街の歴史も移り変わりが激しく興味深い。

 

その歴史を俯瞰すれば、

 

①室町時代  :一向宗の門前町(金沢御坊)

②江戸時代  :前田家の城下町(金沢城)

③明治ー戦前 :大日本帝国陸軍の軍都(第9師団司令部)

④戦後ー昭和 :金沢大学を中心とした学園都市

⑤平成ー令和 :工芸・茶道・現代美術などが集積した芸術の街

 

といったところでしょうか。

 

 

■地形と気候

典型的な扇状地で、手取川を南に、犀川と浅野川の二つの川が三つの河岸段丘を形成しています。

 

 

日本海の対馬暖流の水分を目一杯吸収したシベリア高気圧が、北陸の山にたっぷりの雪を降らせ、その雪解け水が山を侵食して土砂を流し堆積させて扇状地を形成し、伏流水と2本の川を流し、河岸段丘を形成し、ヒトを呼び寄せました。

 

したがって金沢の街は山麓に位置し、海に近いのですが隣接はしておらず港街ではありません。

 

訪れた秋の季節でも日本海の気候らしく、どんどん海側から間断なく雲が運ばれている様子がずっと空を眺めているとよくわかります。

 

 

なので1日の天気は晴れ→曇り→雨のローテーションが続き、出雲地方同様「弁当忘れても傘は忘れるな」と呼ばれる街。

 

 

したがって雨も多く、東京エリアでは年間降水量は1,500mm程度ですが、金沢では同2,400mmと圧倒的。湿度も高く、特に冬(12月)はほとんど晴れず、1日あたりの日照時間は2時間しかありません。

 

街の中心は、河岸段丘の一つ、犀川と浅野川に囲まれた「小立野台地」の先端。ここに一向宗の金沢御坊から始まる金沢城が立地。そしてその隣地に加賀藩が兼六園造園。

 

 

市街北方に位置する卯辰山麓からみれば、金沢の街のその典型的な扇状地と河岸段丘が町を形成したのをちゃんと感じることができます。

 

 

小立野台地では水を供給するための古代ローマに倣って(かどうか不明)、地下に水道橋ならぬ辰巳用水が造成されます。犀川上流から取水して金沢城まで水を流している様子が、兼六園の桂坂入口から上がって霞が池の口の辺りに遺構が残っています。今も現役。

 

 

その水の流れをみると、見事に上流側から水が流れているのがよくわかります。ちなみに一旦お堀の下をくぐってお城まで水が供給されるのですが、兼六園よりも金沢城の方が標高が低いので、逆サイフォン方式で、お堀で一旦用水路が下がったとしても、ちゃんと水が流れるのがポイントです。

 

 

金沢の立地環境がもたらす豊富な水量による豊かな農業と街の生活、そして北前船の貿易(銭屋五兵衛主導)などにより、街は人が集まるに値する地域となりました。

 

*この辺り、アテネ&ピレウス港やローマ&オスティア港の関係に通じるものがあります。

 

■街の生業と文化

今の金沢のルーツは、名君の多かった前田家の街づくり。

 

加賀藩隣地の富山藩も大聖寺藩も前田家一族だったので、実質加賀・越中・能登を治め、前田家がこのエリア一帯を統治。

 

 

豊臣家に深く信頼された初代利家の遺言を反故にして2代利長が徳川家に寝返り、3代利常が巧みに幕府とネゴしたことで幕末まで存続。

 

江戸時代に前田家が一貫して統治したことで政治は安定。利常は、改作仕法の施行と加賀八家の統率によって税に基礎をおきつつ公平で効率的な統治機構を完成させるとともに安定した財政を確立。同時に各地から芸術家や茶道家を招聘し、地内に住まわせ各種文化のパトロンとして日本版メディチ家状態。

 

 

5代綱紀は日本版の乾隆帝(清代)。茶道・能・絵画の名人を招聘し、全国から文書を集めるなど「加賀は天下の書府なり」と呼ばれたらしい。

 

 

このように、前田家がその基盤を確立した金沢の街は、近現代においてもその隆盛が維持され、しかも米軍の空襲も逃れたため、建物含めたハード系文化が京都のように現存しています。

 

 

戦後から今に至るまで一貫して人口も増えており、しかも若者も多いという成長都市。そういう意味で福岡市の小型版といったら失礼か。

 

実際統計(国勢調査)をみると、人口は約47万人で人口は2.4%増(H17/H27)。意外にも高齢者は全国平均(26.3%)よりも1.7ポイント低く(24.6%)、現役世代や子供が多い。したがって街自体が人口構成的に未だ成長しているという稀有な都市。

 

ちなみに周辺の七尾市や輪島市をみると人口減少は、それぞれ10.6%減、16.9%減と激減状況でなおかつ高齢者の構成比が、それぞれ34%、43%と超高齢社会ですから、現役世代が仕事を求めて周辺都市から金沢市に集まってくる様子が伺えます。

 

そして興味深いのが、医療福祉関係(6.1%)や教育・学習支援関係(2.6%)が全国平均より高く、文化・教育が発展した高福祉都市というのが数字上でも街の特徴。

 

 

確かに街をドライブするとやたらに病院と学校が多いのですが、数字上でもそれは裏付けられていました。

 

街のボランティアガイドさんに聞いたら、北陸新幹線が金沢駅まで延伸されて以降、コロナ前までは内外の観光客も激増状態で、去年まではこんなにゆっくり観れませんよ、という感じだったそう。大学が金沢城址から移転して以降(1989年ー1995年)、玉泉院丸庭園を再現させるなど、石川県がしっかりお金使って金沢城を復元中。

 

 

このように、金沢は豊かな自然環境と前田家の善政によって発展し、戦後も北陸の中心都市として地域のみやこ的な役割を担う、成長著しい街。

 

先日(2020年10月25日)も東京から国立工芸館が移転オープンするなど、文化芸術都市としての役割もますます高まり、金沢は未来明るい街です。