五十にして天命を知る | 52歳で実践アーリーリタイア

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52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

50歳になって改めて論語の「五十にして天命を知る」について考えてみた。

学生時代、中国思想を専攻してきた私にとって、天命を知るというのは、簡単にいうと「天命(=自然の法則)を知る(頭で理解する)」ということになる。

儒教=政治思想の目的は「天の動きに人間社会の動きを一致させること」にある。

つまり、四書五経という儒教の経典のうちの「礼記」にある「修身斉家治国平天下」という文言の通り、身を修め家族が斉うことによって国を治めていくと、自然の法則に則って国を運営することができるというのが儒教の思想の根本だ。

今で言えば、国のガバナンスは、規律ある個人と家族円満によって成し遂げられる。そして国のガバナンスを整えられれば、自然の法則への対応にも円滑に対処できる。これが儒教の思想。

そしてその根本である自然の法則を理解するのが50歳ということになる。

井上靖の「孔子」という本では確か、天命とは、自分の運命=分相応を知るというような意味で理解されていたと思う。これは自然の法則は、そもそも自分の思いとは一致しないという解釈をして、だから自分の思い(ウチの世界)と自然(ソトの世界)とのギャップを「天命を知る」という言葉として受け止めようと理解したのではないかと思う。でもこれでは、儒教の考える理想の政治はそおそのできないということになってしまう。

さて50になった自分は、自然の法則を理解しているのかどうか、ということ。

自分の理解としての自然の法則とは「時間」と「空間」の掛け合わせによって成立しており、この掛け合わせによって「常に変化するもの」となる。それを自分の主観として実感していること「そのもの」という理解をしている。

そしてそれを「知る」ということと、それが「耳順う」ということと、それが「できる=心の欲する所に従って矩を踰えず」ということは、別物だ。「耳順う」とは今そこにいる状況とその変化を的確にとらえる能力。そしてとらえた状況に合わせて自分を変化させていくことが「できる」ことが70の立ち位置となる。

自分が感じている「いま自分が感じている空間」の変化(=時間)に上手に自分を整合させていけるようになるのが70歳の理想の姿。

キーワードは、「変化対応」「共通理解」「時代の流れに乗る」「郷に入れば郷に従え」だ。