前回の続きになります。
やっぱり長文です。
よろしくです! ではいってみましょう!!
本番当日、相変わらず奥さんは不調です。彼女は「目立たず、何もするな」と言われていました。
数十人で作り上げた一つの舞台を、彼女一人に壊されるくらいなら、自分の存在感を消せと言っているのです。それは女優にとって、死ねと言っている様なものです。
私は仕方ないと思ってその様子を見ていました。というより、ここまで来ると自分の役で本当に手いっぱいで、他人を気遣う余裕はありませんでした。
そうして本番が始まりました。物語は時代劇。私は家を潰された浪士の役で、復讐のため刀を握ります。奥さんはというと、茶々姫につき従うだけの側付き役。確かに台詞もほぼ無く、不調の彼女を舞台に上げるだけならば、これほど適した役はないでしょう。
私は一族の者達と、家を取り潰しに追い込んだ敵が雇った、腕利きの用心棒と戦い、私を含め次々と切り伏せられていきます。一族が無念の討ち死にを果たしたところで、茶々と、側付きの奥さんが現れました。
その時の彼女を見て、私は目を疑いました。いや、驚愕に打ち震えたと言っていいでしょう。
誰も予想していなかった。おそらく最高責任者である演出も、こんな結果は予想だにしていなかったでしょう。
まず、茶々姫が美しい着物を優雅に着て、花道に現れました。外部ゲストとして呼んだアイドルタレントの美少女が茶々です。
そうして次に、地味な紺の着物を着た奥さんが現れる。しかしその『存在感』は、驚愕です。
輝きが、違うのです。
存在が、この世のものとは思えないほどに光り輝き、ただ目を伏して歩いているだけなのに、そこに女神が出現したかのように、私には見えました。
不思議なもので、会場の全ての観客が奥さんを見ているのが分ります。息を飲んで、目を見開いて。
前を行く色鮮やかな着物の姫など、誰も見ていません。ただ、そこに佇んでいるだけの側付きを、会場数百人の人間が注視、させられているのです。
凄まじいまでの存在感。
人の集中力の限界を超えて、神がかっているとしか思えません。
これまでの人生で、こんなにも心が震える芝居を生で見たのは初めてでした。自分の芝居など、足元にも及ばない…。そう本心から思える姿でした。
この感覚は、芸能人や芸術家が時折見せる、心を捕まえて放さない魂の表現を見た時の感覚と同じです。私が体感した有名人をあげるなら、美空ひばりや美輪明宏、クイーンのフレディ・マーキュリー、奇跡のピアニストと呼ばれる、フジコ・ヘミングに同じものを見た事があります。
とんでもない天才達が見せることのできる、表現の究極。それを見た気がしました。
当然、終演後のアンケートに書かれている事は、奥さん一色でした。
「あの女優はだれだ!?」
「すごい綺麗だった!」
「あの女優が主役の舞台を見たい!」
などで埋め尽くされています。しかし当の本人は、
「…よく覚えてない。ただ必死にやっただけ」
と、キョトンとしていました。
その舞台の後、彼女のお腹に赤ちゃんが宿りました。ほどなくして私たちは芝居を引退し、今に至ります。
彼女を放したくないのは、私です。私は奥さんが見せたあの一瞬に、魂を奪われました。だから、彼女を死ぬまで、死んでからも、魂となっても一緒にいたいと望んでいます。
そんな彼女の存在が、無価値であるはずがない。
障害とは何でしょう?サヴァンの存在は有名ですし、ギフテッドは実在します。むしろ、障害者と言われる少数派の人間達の中にしか、本当の天才は存在しません。
そして天才とは、生産者ではありません。彼らは創造者です。
多数派の凡人が誰も作れないものを創造する事が出来るから、天才なのです。
私は自己表現が出来ない障害者には、宇宙の真理を紐解いている人々が本当は沢山いるのではないか?と考えた事があります。人間の脳と、人の魂は、私を含め多数派の皆さんが考えることなど遥かに凌駕しています。その高みの一片に手が届くほど自分を高められる資質は、実は障害者の方が多く持っていると、私は考えるのです。
障害者達は、それでも無価値か?
ただ安穏と生きているだけの私たち多数派と、彼ら少数派、どちらが、無価値でしょうか?
だから私は、彼らを守ることを決めました。