願望が、執着にとって変わる、じんわりとした瞬間がある。

それは、得ようとした何かを得られなかったとき。

実感が伴わず、感触がない、確信がないとき。
「人に認められる絶対的な結果を、一人で導き出すことを要求される行為」

それが「責任」というものだという、強い固定概念があった。

それが出来てはじめて、
認められる人になれる。

そう信じて疑わなかった。

分からないことがあっても、それはわたしが一人で解決することであって、相談することじゃないと思っていた。

わたしの中の「責任」には、そんな一人よがりが満載だった。


それは外からやってきて
外のニーズを余すところなく拾い上げて、
そのニーズ一つ一つを、一人で必死につぶし続けていくこと。


それが責任だと感じていた。しかも、認められるだけの目に見える「結果」を一人で提示して「よし」という合格を得ることまでを含んでいる。



いや、そうすることで、
人から認められるんだと勘違いしていたんだ。


人に認めてもらわなければ…って、しかもそれは
一人でやんなくちゃって。

認められたいから、
責任のとれる人になりすませうと、わたしの独自の責任の解釈を推し進めつつ、人の要求をくめたような気になり、誰にも相談せず、一人考えて、全部背負ってって、そうやって。。

しかし、

くんでたつもりのニーズは、ただただ認められたいがために拾い上げた、

わたしの認められたい欲求を満たせられればそれでいいという制限つきの、

わたしのお目がねに叶うニーズだけくんで、よりごのみしていただけにすぎなかった。

だから、本当の意味でその人に寄り添い、ニーズを知り、汲み取るという、そこまでに至る血の通ったコミュニケーションがわたしにはない。

自分の欲求を満たすだけのニーズを勝手にひろいあげていればいいのだから、血を通わすコミュニケーションなどわたしにとっては無関心の極みだ


次は何?
何が望み?
困ってることは?

認められる感じが得やすいニーズを、自分勝手にリサーチするのだ。


見抜ける相手は感じるだろう。

「こいつ、断らないな」

「むしろ断れないわ。認められたいだけやし。アホくさ。」

「やってくれるなら、勝手にやらしとこ~」

「ねぇねぇ、ごめんね~、これもお願~い」

そんなことが続くようになる。

わたしはだんだん意味が分からなくなる。


「え?それも?これも?でもやったら認めてくれるの?でもわたしの範囲じゃ、もうやりたくないのに…」という本音

勝手に怒りが沸いてる。