今回は、
①「シャルリエブド事件」とは
②事件が起きた理由・背景
③シャルリエブドが風刺画を載せ続けた理由
④シャルリエブドはイスラム原理主義だけを批判しているわけではない
⑤風刺画を載せなければ良かったのか?〜表現の自由〜
⑥事件を防ぐにはどうすれば良かったか
を簡潔にまとめます。参考・引用文献は文末に。
①「シャルリエブド事件」とは...
- 2015年1月7日
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パリにある週刊風刺新聞「シャルリエブド」本社にイスラム過激派テロリストが乱入
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編集長ら合わせて17人が死亡
②事件が起きた理由・背景
Q: なぜ事件が起きた?
A: 簡単に言うと「イスラム原理主義を馬鹿にしたような絵を載せ続ける新聞社(=シャルリエブド)にイスラム過激派が激怒」したから。
- 代表的な風刺画...「原理主義者にお手上げのムハンマド」...頭を抱えるムハンマド、吹き出しには「ばかどもに愛されるのはつらいよ」の文字。
- 実際はイスラム教そのものではなく、「イスラム原理主義」を批判しているのだが、「ばかどもに愛されるのはつらいよ」という言葉のみ(あるいは画のみ)がSNS等で拡散し、世界各国で抗議デモに発展していた。
Q: なぜシャルリエブドはイスラム原理主義を批判?
A: 「フランスの市民社会の理念(ライシテ)を受け入れない一部のムスリムへの不快感を表現したかったから。」
- フランスの市民社会の理念「ライシテ」...宗教の異なる移民をフランス社会に統合するための政策として、フランスが適用してきたもの。いかなる宗教も優遇せず、公共の場に持ち込ませない代わりに、信仰の自由などの権利を平等に保障するという原則。
- フランスの移民の受け入れは、移民がこうした原則を受け入れ、フランス語の習得に励み、フランスの価値観を理解した「フランス国民」となることを前提としてきた。
- フランスのイスラム教徒の人口は570万人とも推計されていて、EU加盟国の間で最多。
- その多くはフランスの社会と同化・共存。世俗化し、人権や自由・平等等の市民社会の理念を受け入れ、コーランを現代に適応するよう読み替えている。
- 一方、イスラーム社会のなかにはコーランを字義どおり解釈し、女性に全身を覆うブルカを強制し、働くことを認めず、自由恋愛を許さない人々もいる。
- →シャルリエブドは市民社会の理念と敵対する彼らに対し、自分たちの不快感を理由に「表現の自由」を抑圧する権利はないと主張。
④シャルリエブドはイスラム原理主義だけを批判しているわけではない
Q: そもそもシャルリエブド新聞はどんな新聞?
A: シャルリーの風刺と揶揄はもともとローマ法王、ラビ(ユダヤ教指導者)ら全ての宗教が対象だった。
- 2006年、デンマークの雑誌に載ったムハンマドの風刺画を転載して脅迫を受けたため、イスラムの預言者ムハンマドを扱う頻度が高まっただけ。
- シャルリーは世俗主義的で、宗教の原理主義的な傾向に敵対的だった。変化のためにはあらゆる権威に挑戦しようとする「骨の髄まで」左派であり、そういう権威を聖域化しようとするすべての体制に反対することから、すべての権威的な宗教が対象となった。
Q: 風刺画を載せなければ、テロは防げたのでは?
A: 問題はそう簡単ではない。テロや圧力に屈して言いたいことを言えなくなることは、自由が侵されることにも繋がる。しかし、表現の自由を理由にヘイトを行うことも許されることになるのか?バランスが問われている。
- 「風刺画を載せなければ良かった」と言う視点だと、自分の意見を発信できる「表現の自由」を侵すことにもなる。
- 例えばあなたがTwitterで「A党の政策、アホなん?」と呟いてA党の尊厳を傷つけた。そしてA党があなたを襲撃してきた。民主主義の国にいたら、「呟いた私が悪かった」とはならないですよね?
- (筆者が賛成する意見)シャルリーエブドの風刺画は、「表現に自由」内で許されるものである。何故なら、「イスラム教徒」を批判しているのではなく、「宗教が持っている権力」を批判しているからだ。宗教は、一般的にいって、良くも悪くも人々に様々な規範を押し付け、それに従うよう仕向け、個人の思考や自由に基づく選択を制約するものだから、権力を持っていると言える。必ずしも目に見えない権力を告発することと、個々人が選択できない属性(国籍、民族、宗教、セクシャリティなど)を基準に集団を非難すること(ヘイトスピーチ)との間には大きな違いがあると考える。
⑥事件を防ぐにはどうすれば良かったか
Q: 事件を防ぐためにはどうすれば良かったのか?
A: 両者が「エンパシー(=相手の視点に立って考える)」の精神を持っていれば良かった。
- (私見)テロを起こすことが許されないことは大前提。しかし、テロを起こすしか術がなくなった背景には、言葉で訴えても自分が信じるものへの批判をやめてもらえなかったことがある。⑤に記述したように、たとえ見えにくいものであっても「権力」への批判という範囲内であれば、表現の自由に基づき自分の意見を発信することは自由だ。しかし、例えば自分の信頼する親が政治家で、馬鹿にされた風刺画を何度も掲載されたら耐えられるのか。支えてくれた親友がイスラム教徒だったら同じことが言えるのか。自分が相手の立場に立って考えることができたなら、ここまで過激な表現にはならなかっただろう。 また、イスラム教徒側も、「何故」批判を受けるのか。自分達の「当たり前」を見直す行動を挟むことができたら、相手への恨みも軽減しただろう。 両者がエンパシーを通じて壁を崩す努力をしていれば、事件は防げたかもしれない。
参考・引用文献
- https://imidas.jp/jijikaitai/d-40-101-15-02-g452/2
- https://www.huffingtonpost.jp/kyung-sin-park/charlie-hebdo-hate_b_6476162.html
- https://www.nhk.or.jp/d-navi/izon/column/190425.html
-
https://dot.asahi.com/dot/2016083000187.html?page=4
