突然炎のごとく。羽生結弦という人を、ひと言で形容するとこんな感じ。
これ以上言葉が浮かばない。けれどもうちょっとだけ、頑張って書いてみる。
ブログを始めたのは、羽生くんのニースの演技を観たからだ。
あの日から、何か訳のわからない熱が内側から湧き起こるようで、苦しくてたまらない。
何処かで吐き出さなければいられなかった。
彼のことはジュニア時代から好きだったし、シニア参戦からは誰よりも応援していたのだから
あの日初めて彼を知ったわけじゃない。でもそんな私にとってもあの日のロミオは特別だった。
身体が震え、涙が溢れた。言いようのない高揚感と、その瞬間に立ち会えた喜びと、
そして同時に感じた焦燥感、敗北感。ざわつく心。何だろうこれは…
彼の演技には、17歳の人生の冒しがたい重みと尊厳があった。
そして鋭い切っ先を観る者に突きつけてきた。お前は何をしてきたのだと、そう問われている気がした。
突然炎のごとく現れた少年は、私から心の平安を奪った。
スポーツに限らない。音楽、美術、踊り、文学、映画、演劇… 人はいつもそれらを求め、そして感動する。
感動とはいったい何なのだろう。
「感動はするもんじゃない。強制する(される)もんだ。」泉谷しげる氏はそう言った。
さすが泉谷さん、事の本質を見事に言い当てている。そう、感動は強制される。時に理不尽に、否応なく、逃れる術もなく…
あの日羽生選手に出会った人々は、半ば宿命的に感動させられた。そんな気がする。
彼の渾身の演技は、その途方もない熱量で私達の心の覆いを剥ぎ取った。
ひとりひとりの、心の奥に眠る柔らかい場所に素手で触れ、私達にその存在を思い起こさせた。
私達の中にも、彼と同じ熱い魂がある。剥き出しで持ち続けることは出来なかったけれど、手放してしまったわけじゃない。
本当はいつだって、胸の奥に持っていたのだ。
怖れを捨てて心の覆いを取り去れば、世界はこんなにも眩しく、広く、深く、未知の慄きに満ちている。
陽光のように観る人の心に光を宿らせる。おそらく、そういう力を天から授かり、また自ら引き受けた人なのだろう。
あの日彼に出会った人々が、日本中に、世界中に居る。
それぞれの日常で、彼から受け取ったエネルギーに突き動かされて、新しい一歩を踏み出す。
踏み出す一歩は、大きいもの、小さいもの、さまざまだろう。
彼のようにアスリートを目指す人も、世界に向けて歌おうとする人も、きっと居る。
仕事頑張ろうとか、子供たちともっと話そうとか、明日はあの人に話しかけてみようとか…そんな些細なことかもしれない。
花を見て、空を見て、その美しさに気づくだけかもしれない。それでも良い。
あの日彼から受け取った希望の種子を、ひとりひとりの土壌で育ててみよう。
もしかしたらそれが、あの日羽生結弦に出会った私達の、役割なのかもしれないから。
そうやって、少しづつ波紋を広げていこう。
2013年 カナダロンドンの世界選手権、彼は再びその舞台に立っていた。
メダリストとして期待を背負い、性急に成長を求められ、プレッシャーと戦い続けた1年間。
精悍になった顔つきと、疲弊し傷ついた身体。いつもの伸びやかさはどこにもなかった。
伝えたかった「ノートルダム・ド・パリ」の世界は消え去って、ただ、火のような意志だけが伝わってくる。
苦悶の表情で滑りきり、全身で叫び倒れこむ。
「羽生結弦」という鮮やかな物語だけが、透きとおるように輝いていた。
これがわれわれの人生の物語のすべてではないぞ。
宇宙の究極点の、その向こうに始まりはある。
始まりはいつも柔らかく、若く、美しい。
(マシジ・クネーネ ズールー詩集より)
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。