P86から
1 あわてふためく癌告知

癌かも知れない

それは偶然やってきました。

「⋯⋯ウン、お歳暮ありがとう」

「お歳暮ということじゃないんだけど、何んとなく兄さんとこに贈っとこうと⋯⋯」

「いや、おいしかった。お礼の電話しなくちゃと思ってて⋯⋯」

「ところで元気?」

「ウン、まあまあ、あちこち痛んでいるし、ずっと何んだかんだで病院通いだからね」

「そういえばいつだったか薬十種類ぐらい飲んでたよね。びっくりしたけど⋯⋯」

「九月頃からちょっと体調こわしてね。通院してたんだ。肝炎とか肝硬変とかの疑いがあると言うんでね。実は年明け六日に入院して造影剤を注入するんだ。〇Tスキャンというの撮ってね」

「CT撮ったの? 造影剤注入だって?⋯⋯」

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「うん、遠影剤ってよく判んないけど、それを入院したらすぐやるんだって⋯⋯」

わたしは思いました。

「こりゃ癌じゃないか。造影剤というけれど抗癌剤の事だろう。入院してすぐやるとはかなり急なことだ。事態は切迫しているぞ」

世間話をしてから嫂(あによめ)さんに代ってもらいました。

「何んでも、その日家族、わたしと息子にも来て欲しいんですって⋯、説明するから。

何んでしょうね。本人も気にしていて癌かも知れないなんて落ち込んでるんですよ」

「写真撮って造影剤注入。それは抗痛剤注入ってことですよ。今まで担当の先生から何かお話しはなかったんですか?」

「九月に行きはじめてからお医者さんが三人代ったのね」

「ああ、大学病院じゃよくありますね」

「十二月に入って三人目の先生になった時、あれ、こりゃあ大変だ。病気がすすんでると言われたんですよ。詳しく調べてみないと判らないけど、大事だ、って言われたの。本人も聞いたのね、「癌ですか?」と。でも先生は「癌になるような進み具合だけどまた癌にはなってない。

入院して造影剤の注入をやってみた方がいい」ということで入院することにしたわけなの。本人も元気だし、でも癌と疑っているわよね」

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こりゃもう間違いなく癌だと思いました。

まして肝臓癌となれば胆囊癌と並んでまず治る見込みはありません。

「やっぱり癌かしら?」

と嫂は心配でたまらない声でした。かなり頭の中は白っぽい感じです。

聞きたいけど聞きたくない。癌と告知されたらどうしよう。「⋯⋯あと二〜三カ月の生命と宣告されたらどうしよう」本人はもちろん

家族のその場での対応はと考えるとどうしていいかわからなくなります。


 思えば昭和三十七年、もう三〇年以上も前です。戦前の満州鉄道に勤めて現地召集で関東軍に入隊、そして敗戦。シベリアに五年間抑留されて日本に

帰還、結婚、一女をもうけて胃癌で三十八歳の若さで死んだのが長兄です。長兄の入院している病院に半年おくれで母が入りました。

当時の手術で約七時間、胃癌と食道癌の二つでした。

「お母さん来ないけどどうしてるのかな」

と病床の長兄がわたしたちに聞きます。

その頃同じ病院の中に母は入院していたのです。

それを言うわけにもいかず、困りました。

長兄が死んでから半年後に母も亡くなりました。

この二人の死に際は壮絶でした。断末魔です。

ヒィーヒィー声にならない痛みの呼吸(いき)が

今でも耳に残っています。当時は丸山ワクチンもなくモルヒネも使われず、ただひたすらに強烈な痛みとの闘いを見ているだけでした。五八歳でした。

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それから一年少し経って父が腎臓癌で死にました。六四歳です。

わずか四年足らずの間に三人、それも癌で死にました。当時「わたしの家は癌家系か?」とおののきました。

それから三〇年。残った兄と四人の妹たちはあれこれの病気はしても命にかかわるようなこともなく今日まで来たのです。


※造影剤注入について

  肝臓癌に対して抗癌剤を血管から投与

  する際には、肝臓の細い血管の所まで遺影剤を  使いながら進んで行きます。余計な所に抗癌剤  をまきちらさないために、癌の直前まで

  管を進めて、そこから投与します。


余命のない人大歓迎

それが突然「癌」。しかも肝臓癌とは!

でも、それを聞いた時、わたしはおどろきませんでした。それは、「わたしたちにはM先生がついている!」「M先生に診てもらえばいい」と思ったのです。

わたしは平成二年「糖尿病性網膜症による失明、手術をしても回復の見込みなし」と宣告され

さらにその後、「生命の存続もむずかしい」と宣告されました。その年「国際花と緑の博覧会

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つまり大阪万博のシンボルタワーの館長として、半年のあいだ生きる望みと喜びをかみしめるような悲壮な気持ちで勤めました。

その時知人に紹介されたのがM先生でした。

「人間の身体はふしぎな力を持っているのよ。自分の身体は自分で治す。食べもの飲みものが身体に合っている人は健康。食べもの飲みものが合っていない人が病人。あなたは合ってないから病気の人。合うように生活すれば身体は治ってくるだけの話よ」


その事のいきさつは「糖尿病からの生還」(創造教育センター刊)に書いてあります。M先生の診療所にはありとあらゆる病気、それも重い患者さんがいっぱいます。

その中でも病気の王様

各種の「癌」患者がいるのでした。

「あと、一年とか、あと数カ月しか余命がないと宣告された人ほど大歓迎やね」と先生は言います。

「そうやろう、考えてみいな。残ってる時間がないとなれば人間あわてますがな。やがてあきらめるか、やってやろうじゃないかのどちらかになります。あきらめた人は文字通り病人、日一日と病人顔、病人の身体になっていきます。生きてやろうという気持ちになった人は生きるための努力しよります。生きるためなら何んでもする。その努力が生命力を生み出すのやね」

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わたし診ますがな

私は自分が元気になってから「樹の会」というのを設立しました。総選挙の時に出現した「勝手連」みたいなものです。

私の書いた本は大きな反響を呼びました。

予備軍を入れて一千万人とも言われる糖尿病患者の人からの問い合わせが殺到しました。

「M先生とは誰か/どこに居る/何故名前を隠す/そんな人は居ないのではないか/インチキ療法だろう/東洋医学か/治療費が高いのだろう⋯⋯」

いろいろ言われました。

大阪市の天王寺区にある小さな小さな診療所です。受付も待合室も診療室も一緒くたになった所です。電話が殺到、問い合わせが殺到では診察も治療もできないだろうと思い、勝手に交通整理を始めたのが「樹の会」です。

事務局はわたし一人です。わたしが不在の時はわたしの事務所のものが代行してくれます。

これを始めて五年以上になります。

同じM先生に診療して頂いたことから新しい「ダイエット法」を発見した永沢まこと夫妻の

「世にも素敵なダイエット」(講談社刊)は全国的に知られました。

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ますます「M先生」への殺到を防ぐ交通整理が重要になってきました。

毎月数十通のお便りがあります。今も続いています。

初めの頃は糖尿病がらみのお便りが多く、やがてアトピー性皮膚炎や過食症、拒食症、膠原病、リュウマチ、各種肝炎、そして癌⋯⋯最近では癌患者さんが多くなっています。

お問い合わせに応じて「診断カルテ」を送ってもらいます。具体的に記されているものの中でとても重い癌の方がいます。

素人判断で「こりゃあとても無理じゃないか。

如何(いか)なM先生といえどもとても診察しましょ

うとは言わないだろう」という難しい病気でも、診断カルテを送ってみると、「歩いて来られる力があるならどうぞ!!」というお答えが返ってきてびっくりします。

なぜ驚くかというと「診察しましょう」ということは「治る可能性が高い」と同義語だからです。


そんなお返事を頂いて相手に伝える時、わたしがお医者M先生になったような気分になります。

電話の時のはずんだ声、お手紙書く字が躍動します。

「エッ、ホントですか!!

 診て頂けるのですか!もう駄目だと思ってました。 希望を持っていいんですね!!」と電話口で涙ボロボロ泣いている様子が判るような時、「ああいい仕事している。ガバのリスト(映画『シンドラーのリスト』にあやかって)を続けていてよかった」と思いました。

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実際にその後の様子をお知らせ下さったり、

診療所へ私が出向いた折など見知らぬ患者さんから声をかけられます。

「阿部先生のおかげでこんなに元気になりました。東京の方へ足を向けて寝てません。本当に⋯⋯」

「今、生きてるのが不思議なんです。こんなに一人で歩けるんです。はじめて来た時は夫と子どもと嫁と四人がかりでかかえられるようにして来ました。いま一人で歩いて来てます。高知じゃ遠いので下の子どもの家の近くにアパート借りて毎週来てます。とっくに死んでいる生命なんです。不思議です。先生にお手紙を出したご縁で⋯⋯」

「いいえ、わたしはただ中継ぎしただけです。自分が治って嬉しいからより多くの人に解って頂きたいだけで⋯⋯」

とくに「余命半年、三カ月」と言われて元気になられた癌患者さんに感謝されると、嬉しさ喜びはひとしおです。


見事な癌やね


降って湧いたような次兄の肝臓癌です。

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わたしの妻・長男夫婦と二人の孫、長女、次女はM式食事法をいつの間にか取り入れています。

長女の連れ合いはどうにもなじまない様子でした。

次兄も、わたしの本は読んではいましたが、「大変な食事だね。よく、やってられるね。まだ続いているの」という程度でした。


M式治療法の原点は「糖分をとらない。水・塩・油脂をたっぷり摂って、青菜中心の食事をする事で体内の血液を限りなく薄くきれいにする事と、M先生の血管を丈夫にする治療、この二つが相まって健康な身体にする」という方法です。


「どうだろう、年末だけれどもM先生のところ27日、28日の金・土までやっているから診てもらったらどうかな?」

「ウンそうしてもらおうかな。

急に頼めるだろうか?」

次兄はもしかするとかなり重い癌で残された日数が少ないと、悶々としていた様子が電話口から伝わってきます。

急でしたがM診療所のN事務長さんに電話してみました。

「そりゃ癌ですわ。間違いおまへん。それは抗癌剤注入ですよ。注入した量にもよるけどM療法は免疫力で治すのやから⋯。――いずれにしても歩けるようでしたら大阪まで来たらよろしいがな。歩けますやろうか?」

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「今のところは大丈夫です。十分歩けます」

「入院してしもたら、歩くのは禁止されまっせ。絶対安静で動きたくても動けなくなりまっせ」

年の瀬押しつまった27日、次兄は大阪のM診療所に何のデーターも持たずにでかけました。

「⋯⋯阿部先生? Mです。お兄さん今見えてます。  どうします。あれは一級の癌ですわ。

  わたしとこで治療しますか? 

  本人まだ知らんようですな。

  なんなら今 説明して実際を知らせましょか?」

「⋯⋯⋯ちょっと待って下さい。一月六日に入院

してみてと家族は言ってますので⋯⋯、相談してからまた電話します。先生のお診たては?」

「これは大変です。大きいのができてるのとちゃいますか?いずれにしても今日は何も言わずに帰しますわ。決めるのは早いに越したことはありませんな」

M先生に、

「あんた、これで半年と言われんかった? 見事な癌ですがな」

本人より付き添ってきた人が失神してしまったのを見たことがあります。

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本人に内緒でだましだまし連れて来て、言わないでほしいといっていたのに⋯⋯と言う場面です。

M先生が次兄に「あんた癌や」というからには治る可能性があるということなのか、また、どれほど進んでいるか判らないけれど、肝臓癌、それも末期に近いことは間違いないなと思いました。


あと半年⋯⋯かな

一月六日。

次兄は川崎中原区にあるN医大第二病院に入院しました。すぐに抗癌剤の注入に入ったのです。

嫂(あによめ)さん、息子、わたしの三人で待ちました。治療室から戻った次兄はがっくりして病人に

なっていました。

担当のM医師に別室に呼ばれ、そこで説明を受けました。

CTスキャナ写真が蛍光板に挟まれました。

「これが患者さんの肝臓です。左、右に分けて左の部分見て下さい。12cm✖️10cmの円形、これが癌です」

アッと驚くほどの大きさです。皆既日蝕の太陽のような巨大な癌の姿がそこにありました。

三人とも思わず息をのみました。

アッ、こりゃ駄目だとの思いです。

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「とにかく大きいんですよ。それに粟粒大、米粒大、小豆粒大も、左右に散らばっています。

今の抗癌剤注入はこの12cmのものにやりました。外部にはもれずに成功したと思います。

肝動脈、門脈といったところが狭まくなっていて、胃や腸を圧迫しています。

動脈投影でみても流れが悪くなっています。したがって肝機能が落ちてるんですね。外部には流れていませんから抗癌剤は効き目があると思いますよ。

本来なら右の方の小さな癌、これは無数にあります。これは一つ叩いてさらに小さくすることは可能です。しかし肝機能の働きがどこまで保つか⋯。

抗癌剤では腹水・黄疸がでます。副作用がどこまで出るか、風邪や熱が出たり食欲が落ちたり、肝炎の炎症がでてくるか。心配なのは肝不全、心筋梗塞。それにウイルスにどこまでやられているか。さっきの門脈がいつつぶれるかも判りませんし、他の器官にも転移しているということは十分考えられますのでね」

まず肝臓全体が壊滅的状態だということなのです。M先生は淡々と説明してくれました。余分なことを省き、要点だけをキッチリというふうにです。

「⋯⋯いつまで生きていられるのでしょう?」

と嫂がおそるおそる聞きました。

切迫しているという事情は判ります。一日でも長く生きていて欲しいという思いになります。

「そうですね。抗癌剤が効いても一年は無理ですね。半年⋯⋯」

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言外に半年も無理というニュアンスでした。本当のところ二、三ヵ月、いやここ一、二ヵ月

がいいところではないか⋯⋯。

「まず来週CTをやってみようと思います。

それに18日からわたしは海外出張で一週間ほど

留守にします。別の医師が来ますが、よく申し送りをしますから安心して下さい。それより何より医師は患者、および家族の方にはっきりと病状の告知をします。それは義務づけられています。本人に告知するかどうかはご家族の判断にゆだねます。

そして今後の在り方は患者さん側で決定して欲しいのです。このまま抗痛剤投与を続けるか、もっとも次ががやれる状況かどうか現在のところ判りません。抗癌剤投与は以後中止して成り行きにまかせるか、また第3の方法として他のやり方、ここの病院ではやっていない免疫療法など⋯⋯よくお考えの上ご連絡下さい。その決定を尊重します」

以上のお話を聞いて次兄の病室に行きました。

二人部屋です。点滴を受けながらいかにも病人という姿がありました。声も細くボソボソです。

「⋯⋯病人になっちゃったよ。不思議だね。入院するまで自分じゃピンピンしてるつもりでいたんだけど、麻酔打たれて目が覚めたら、ああ、病気なんだって実感が湧いてきて⋯⋯。病人だろう、誰がみても⋯⋯⋯。ところで先生何んて言っていた? やはり癌だろう? 癌だよね。

 造影剤って言ってたけど、抗癌剤だよね」