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耳寄りな話が舞い込んだ

「むかしの名前で出ています」というわけで

「カバゴン館長」は、花博にお見えになった人達特に三十才以上の大人にはそのまま受け入れられました。

子どもたちはダメです。カバゴンでは通じません。「ラジオ電話子ども相談」

などで声を覚えている子ども達がいます。

カバゴン先生ではなく「阿部先生」です。

親は呼び名で、子どもは本名で

それぞれ納得するという現象がいのちの塔では

起きました。

昼間、夢中で塔を登り降りしたり、協会事務局と入館料是非の打ち合わせをしたり

マスコミハウスに出向いて「有料にしてほしい実情」を説明した

り⋯⋯。

ホテルに帰ってからはあちこちに訴え、援助を乞う手紙を書いたりしていました。

ふっと我に返ると、「目が痛いんだっけ」「体がだるい」「のどが渇く」「胸

に圧迫感がある」「なかなか眠れない」などなど。「六月に目のレーザー手術

ですよ」という声も迫ってきます。

忘れたふりをしていても刻一刻、体は悪いほうに向かっているのです。

(Nのやつにだまされて、調子に乗って引き受けたが、こりゃ九月まで持たない。とても体のほうが待ってくれない)と思うのです。

夜だけでなく、塔の中でも急に目に痛みが走ったりするのです。早く、京大病院でもいい、

大病院でもいい、信頼できる医師についてとにかくキッチリ養生しよう。寄らば大樹の大病院というのが、頭から離れません。

そうこうしている間に、S事務局長がこんな話を持ってきました。

「いのちの塔に大きく協賛して、財政的にも運営的にも加わっていただいているグローリー工業のDさんにお話したら『私の目を治してくれた先生が大阪にいる。

私は糖尿病ではないが右目完全失明、左目もあわやというのを救っていただいた。この先生をご紹介する』と言っている。

どうだろうか、

Dさんに会って話を聞いてみては?」ということでした。

「会う、会います。失明したのが治るんですか。私は失明前だから期待がもてますね。すぐ連絡して下さい」

私は、すっかりその気になりました。きっとすばらしい目の先生に違いない。

子どもの頃に見た映画で「男の花道」というのがありました。

上方の花形歌舞伎役者、三世中村歌右衛門が江戸に下ってくる時、沼津の宿で眼病をわずらい

難儀をしているところを、江戸の土生玄碩という名医にめぐり会って完治する話です。

長谷川一夫が歌右衛門で、古川ロッパが玄碩先生の役でした。

「きっと玄碩先生みたいな、すんごいお医者さまなんだろう。そんな生を紹介してもらえるなんて⋯⋯」と、心ウキウキでDさんに会いました。


【眼科の先生ではない】

「えッ、眼科の先生じゃないんですか?」

「ハイ、内科の先生で専門は血液学だそうです」

話が違うではないか。

私は目のお医者さんを求めているのです。

「⋯⋯大阪だそうですが、その先生は阪大の教授ですか?」

「元阪大におられて、現在講師をしていらっしゃるのです。天王寺の近くで診療所を開いていて

お年は七十五歳ですが」

「エッ(ウッソー)そんなお年寄りなんですか?

診療所ですか?所長さんですか? 

先生は何人ぐらい、いるんですか?」

M先生といって、七十五歳の方がひとりです。

あとは看護が二人、事務長さんと事務の女性一人、計五人が全部です」

なんだ、なんだ、S事務局長、あなたはいったい何を考えているのですか。

もう、まったく――。

「私は東京のK大病院とN大病院、二つとも日本を代表するすばらしい病院

で、原因不明の眼の治療をしていただきました。各々七か月、三か月入院し手術を受けたのです。申し分ない治療を受けたのですが、右目は完全に失明です。左の方もだんだん見えなくなり、いつ失明するか不安におののいていました。

私は水墨画が好きで

自己流の絵を描いていました。

仕事では新製品の開発チームに属してぃました。どうも焦点が合わない

目がかすむという事からお医者さんに診ていただいたのです。原因はまったく不明で、それでいて

ブラックホールのように黒目が光を失っていく、まあ奇病というより他はないわけです。

あらゆる医療の手をつくしていただいても治らないと知った時、絶望的になりました」

ウンウン、わかります、わかります。

私が今、まさにその心境にいるのですから――。

「わずかに光が射すかんじになって、ひたすら失明への道を転がっているんだとわかるんです。

もし、すべての光を失った時どんな生き方があるか。それを覚悟しなくてはならない。

そのXデーのために心構えをつくっておこう。

そう考えるようになりました――」

そう、そうです。Xデーです。私が今、その気持ちの真っ最中なんです。

「私は人の紹介でヨーガを始めました。心をひとつにして己を無にする、

いわゆる心眼を修得しよう。今まで目に頼ってきたものを心の目で見ていこうと考えました。それでヨーガに入ったのです」

やっぱりヨーががいいのか。

精神を高めることによって心眼を得ることができるというわけなのか。

「ヨーガに通っている時、よく一緒になる八十歳ぐらいのお婆さんと親しく

なりました。とりとめない話の中で、私の失明について語りました。その方

は長い間膠原病に苦しみ、あちこちのお医者さまを渡り歩いたそうです。

結局、どこもだめでした。

ある人の紹介で偶然たずねた先生、それがM先生なのです。『とにかく行ってみなさい。診ていただいてから自分でお願いするかどうか考えればいいでしょう』『わたしは目を治してもらいたいのですから』『とにかくいろいろな人が来てますよ。リュウマチの人や痛風の人、肝

臓病の人やアトピーとか、そう、いろいろなガンの人も治っているようですから、あなたの目にもきっといいかも知れない、一応たずねてみたらどうですか?』というわけです。

何とも心もとない、万病を治すというふれ込みのお医者さんじゃないかと思いましたね。

眼科専門の、それも有数の名医といわれている方々の治療でダメなのだから、とてもそんなよろず屋さん的な町医者、それもお爺さんでヨタヨタしているとしか考えられないし。

もしホントウに治す、治したとすれば

そんな小さな診療所なんかであるはずがない。

門前市をなす賑わいであるはずでしょう――」

そうですとも、そうです。これは疑うほうが正しい。

ところで行ったのですか?

行きました。なんとも奇妙な体験でした。レントゲン写真を持って来るように言われました。それも脳のレントゲンです。目ではなくです。

持ってったら拡大鏡で真剣に私の脳のレントゲンを見ているのです」

変わってますね、目玉じゃないんですか。

「そのうち、『あッ、あったあった。これだこれだ。ここのところ黒いの、これキズです。これがあなたの失明の原因です。お医者に言われてませんでしたか?』と聞かれたので私はびっくりしました。

今までそんなことは言われないできたのです。

『このキズ、脳の中のキズがあなたの目をダメにしたのだと思いますよ。原因はきっとこれでしょう。もっと精密に見る必要がありますが

とりあえず、毎日の食事について言いますから、それをキッチリ守って下さい。

左の目は失明しなくてすみます。

右の目は、今は真っ黒で何も見えないでしょうが、そのうちボンヤリと光がわかるようになってきます。ただし、私のいう食事の取り方をキチンと実行するかどうか、あなた次第です。では食事について⋯⋯』と

こっちの思惑などおかまいなしにドンドン話を先に進めるわけです」

Dさんは、結局何という病名だったのですか。

「眼底出血及び脳内出血です。」

『この次は一週間後に来て下さい。血液検査の結果など詳しく出ると思います。その時、あらためて具体的に治療のしかたを考えます。

ええ、治ります。見えるようになりますから。ええ私が治してあげます』って言うんですよ、

このジジィめと思いましたよ。

でも何ともニッと笑顔がいいので、

つい『お願いします』なんて頭下げてました。

半信半疑どころじゃありません。

全く信用してませんでしたね。そう、五回か六回目あたりで考えが変わりました。

最初なめてかかってましたから、いけないといわれているものを食べてしまって心臓がおかしくなったり、何回か再発しました。食養生を始めて

1ヶ月ぐらいした頃、ちょっとなら大丈夫だろうとイチゴを食べたら、朝起きる

と眼底の大失血で全然見えない、明るいも暗いも分からないんです。それで、

この先生の療法は正しいと実感したわけです。三か月くらいで、体調がもの

すごくよくなってきて、八十四〜五キロあった体重が、そう今の阿部先生く

らいあったのが十五〜六キロ減ったんです。熟睡できて、肩こりもなく、少年時代にもどったようなさわやかさなんです⋯⋯」

よーし、決まりだ。


【これがウワサのM診療所】

ウーン、こりゃ、水島新司の「あぶさん」の世界だと思いました。居酒屋

「大虎」の雰囲気です。

Dさんの話で先生お一人と聞いていて大診療所ではないと思っていましたが、四階建の小さなビルです。

パッと見た時「鍼・灸」の看板が目につきま

す。一階の入り口のところに「皿診療所」と小さく出ています。

こりゃダメだ。適当に対応して、Dさんの顔を立てて帰ろうと思いました。

中に入るとアッというほどの狭さで、すぐ受付です。ここが待合室?そう、一坪半ないよね。男の人、女の人、事務の人らしい。

「あ、Dさんいらっしゃい。阿部先生ですね。お待ちしていました」

その声を聞いて「Mがいらいだよーん」と板のかかったドアが開に

護婦さんが出てきました。

イ、どうぞ、中にお入り下さい。ハイ、おしっこをとってきて下さい。ハイ、お二階にどうぞ」

「え、あの、阿⋯⋯」

診療室の奥に座って、何やら中年の女性と話をしている人が入先生らしい。

「あ、阿部先生、Dさんいらっしゃい」

と、キチンとごあいさつして下さった。

そして、すぐ女性と対話。

「ダメよ。守らなんだらあかんのよ。少しぐらいの量ならいいというんやないの。それが体の中に入るか入らないかの問題なんよ。ここのところ読んでみてごらん!(何やらドイツ語の医学書)」

「ハイ、お二階で心電図と点滴です。ハイ、上がりましょう」


威勢のいい、この看護婦さんに追い立てられるようにしてお二階へ――。

病院、診療所というより、昔懐かしい温泉ランドの雰囲気でありました。

かくて、私の新しい糖尿病との戦いが始まったのであります。


この日から、私の闘病生活は新しい段階を迎えました。

今までのチャランポランな、流れに流され、そして自分を正当化してしまっていた生き方とハッキリ決別をしなくてはいけない。

迷っていたのではいけないと思いました。

体的な日常生活についてはメモがあります。

それをもとにまとめたものを第三章で書きます。

ここではM先生に診ていただく中で、「なぜ、そうすればいいのか」を六つの形でまとめてみました。

折にふれての対話で、一度に交わされたものでは

ありません。話が重複したり前後していることをお断りいたします。