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糖尿病歴十七年のベテラン

二セ情報で医師先生をだますテクニックを身につけた――

糖尿病でインポらしい?

発見は昭和四十八年。体重九十六キロ(身長百七十センチ)、ぶくぶく太り

で誰が見ても「どこかおかしい」という感じでした。

この年、四月から始まった日本テレビ系二十六回連続ドラマ「こんな男でよかったら」にレギュラー出演しました。役者としてです。

主演はあの「フーテンの寅さん」の渥美清さん。岐阜県郡上八幡を舞台に、ふらりとこの町の

出身者と名乗る風来坊が帰ってきます。

それが渥美さんの役。その小学校歩。小学からの同級生役が財津一郎さん、小坂一也さん、それに私(安部歩は小学校の先生で自宅で塾をやっている)。

瞼の母役がミヤコ蝶々さん、

マドンナに島田陽子さん、

お姉さんに倍賞美津子さん、

おまわりさんに浜村 純さん。

脚本は早坂暁さん(後半は鎌田敏夫さん)といった豪華な顔ぶれです。

その人たちに混じって、素人の私は懸命にやりました。ほとんど毎回顔を出す

役でした。週四日がかりでビデオ撮りするので、この半年間はほとんど講演会などはやりません。ひたすら「あべあゆむ先生」になりきっていました。

六月の中旬ごろ、急にガクッという感じがし、けだるさが抜けない日が続

きました。おしりに腫れものができて、ウミをもっています。日に日に大きくなる感じで

不安にかられました。

次に歯痛がおそってきました。足もむくんできた感じ。

そして、肌の色が白っぽくなってきました。

いやでも異常を感じないわけにはいきません。

スタジオで自分の出番のない時、セットの陰で横になっている事が多くなりました。

短い時間、うたたねをします。これは若い頃から得意にしていました。

「ハイ、時間です。スタンバイして下さい!!」の声がかかればスパッと起き

て、ずっと起きて待っていましたという顔ができるのです。

阿部先生、元気がありませんね。カメラで覗くと疲れてい。

でてますね。一度お医者さんに診てもらったらどうですか」と演出の0さん

に言われてしまいました。

思いきって1女子医大に行きました。おもに診ていただいたのは「おしり」で

す。「肛門周辺腫瘍」いわゆる「痔」です。「検査入院、そして切開しましょ

う。ちょうどベッドもあいているから五日間ぐらいですみます」との事です。

「他も異常があるようなので、この際、精密検査をされた方がいいですよ」

とも言われました。

そうはいっても、ゴールデンタイムのドラマの準レギュラーです。この先

の台本ももらっていますし、出番もあります。ようやく盛り上がってきたス

トーリーは、ますますおもしろくなってきています。「あべあゆむ先生」とし

ては、休むわけにはいきません。しかし、疲れがひどく立ちくらみもでてき

ました。おしりも痛い。

思いきって、演出家とプロデューサーにお願いしました。「何とか台本を変更するように早坂さんに頼んでみましょう」という

んなり、一週間(実際は二十日間)の0Kを頂きまし

院、精密検査です。その結果で、おしりの手術をするかどうか

ようとの事です。

ドラマの方は、早速変わっていきました。

下条アトムさんのセリフ「あゆむ先生見えないけど、どうしたのかな」

財津(町医者)「ああ、彼ね、糖尿病で岐阜の病院に入院させた。ああ太っ

ていてはね。私が発見して手続きをとった」

下条「糖尿病というとあのインポテンツのあれですか」

財津「そうだ。インポのあれだ」

下条「あれって、あれがダメなんでしょう」

財津「あれは、はじめっからあれがダメだったからダメになったとは、言

わないだろうな」

下条「ダメがダメになったら、長いのですか」

財津「まあ、一週間か二週間で帰ってくるだろう。

糖尿病は太るのが一番の原因だ」

ドラマは収録の次の週放送という綱渡りでしたから、この様子は病室で見

ました。

「えっ、糖尿病!!ちがいますよ、おしりですよ、おしり。すっかり糖尿に

され、おまけにインポだなんて――」

腹を立てたり笑ったり。あちこちの病室の人も廊下で出会うと「糖尿なん

ですか、先生」と声をかけられる始末。「いいえ、肛門のまわりに腫れものが

できただけです。あれはお芝居ですから―ー」と言い訳するばかり。

まちがいなしに糖尿病

そうこうしているうちに検査の結果が出て、

「糖尿病棟の方に移っていただきます」

という宣告。ダダダーンという感じです。

早坂先生のドラマ通りになってしまいました。

「腫瘍は血糖値の高いことから起きているのです。太りすぎが原因です。血糖値を下げることで腫瘍は小さくなると思います。糖尿の方、つまり外科病

棟から内科病棟へ移っていただきたいのです」

と、担当の先生の話。続いて高名な月教授が病室巡回にやって来られまし

「食養生で、まずやせる事だよ。患部もそれで小さくなる。もし、悪化する

ような事になったら手術をしよう。手術といっても、これはいわゆる手術ら

しい手術じゃない。その時は、私が階段教室で女子学生たちに公開で手術の

イロハを見せるつもりでやる。女子医学生の前でおしりを見せるか、それが

いやだったら糖尿の方の治療をちゃんとやるんですな、カカカッ」

と言って出ていかれました。何十人もいる女子学生に下半身をさらすなど

とても、恥を何よりも一番に考える血液型A型人間(胆汁気質)の私には耐

えられません。糖尿病とみんなに知られる事も恥ずかしいが、衆人環視の中

での手術、それも多数の女子学生の前などでは失神してしまいます。

糖尿病の何であるかもわからずに、内科病棟の方に移ることにしました。

た。

「空腹時血糖値が一六〇。食後二時間で大体二五〇。重症とはいえませんが

今みたいに太っていたら、このままさらに太って百キロになった時、合併症

があれこれでてきます。そういう事でいうなら、肛門腫瘍はサーモスタット

みたいなものです。普通は体の中に異常が出るので発見しにくい。あなたの

は外にでているのだからわかりやすい。自己判断できるのです。通常、目、

歯、痔といって老化現象の三種の神器がこれです。あなたの場合、いま歯痛

でしょう。それにおしり、これは糖があなたの体を冒し始めているという警

告なのです。今日の夜から体重を減らすための食事療法を始めます。一七〇

〇キロカロリーから始めます。おそらく三〇〇〇から四〇〇〇キロカロリー

取っていたと思います。急に減らされてガクッとなってもいけませんから、

毎日、一〇〇キロカロリー減ぐらいでやってみましょう」

懇切丁寧な女医先生のお話です。

思いあたることばかり

私の長兄が胃ガンで三十八歳、母が胃ガンと食道ガンで五十八歳、父が腎

臓ガンで六十四歳でそれぞれ死んでいます。ガンに対する恐れと知識は持ち

あわせていましたが、糖尿病については全く青天の霹靂でありました。

手術入院が教育入院に切り替わりました。

「主として入院中は食事療法、特にカロリー計算を覚えて下さい。こんな献

立がよいという事、三度の食事をきちんと取ってバランスのとれたものにす

る事。そして確実にやせるという事を覚えて下さい。糖尿病そのものについ

ては、退院後診療を受ける都度、糖尿病学習会に出席してください」

かくして、カロリーとの戦いがはじまりました。

分ひかえめ。淡白な食事の毎日。食品交換表による基礎食献立

に栄養士さんの指導、当然家人も参加してメモを取ることになります。

三キロほど体重が減って、ドラマ収録に復帰しました。

何といっても九十六キロから三キロ減では、まったく目立ちません。ドラ

マのあゆむ先生の通りになっての登場です。でも気持ちだけでも「やせた」

という感じが「治った」ように錯覚させるのでしょうか、気分は極めて上々

でした。

外食がほとんどだったのが、お弁当に変わりました。もちろん栄養士さん

の指導による献立です。

世間一般では、現在ほど「糖尿病」に対する関心はあまり高くありません

でした。「ゼイタク病」といわれ、美食家、グルメの人のかかる病気という程

度の理解がごく普通でした。

う、阿部さん糖尿なの?グルメなんだ。食通とは聞いていたけ

っぱり全国あちこち旅行して、おいしいもの食べてたんですね。私など縁遠

い病気で⋯⋯」などと、知人にからかわれたものです。

そこで、学習会で教えてもらったことの受け売りがはじまります。

「起こる原因はいろいろあるんです。一番先に考えられるのが『遺伝』。イ

ンスリンというものの不足から起きる病気なわけ。糖尿病になりやすい体質

というのが子どもにも伝わるんだって。私の場合、父がグルメだったから、

父から伝わったのかも知れないなあ。それにガバガバ、バリバリ食べまくっ

て食べるの大好き、なんてドンドコ肥満しちゃったわけ。小学校の先生にな

った頃は五十五キロぐらいだった。もっとも、昭和二十年代の後半だからみ

んなやせてるのばっかり。それが三十年代に入ると六十五キロ、四十年三月

で先生やめた時は八十五キロ、そして今や九十キロオーバーってわけ。

私の場合は『遺伝』に『環境』が加わったわけだと思うよ。学校給食の始

めの頃はコッペパンに脱脂ミルクだけ。子どもの余ったのも食べちゃったも

だね。やがてハンバーグ、くじらの磯辺あげとかクーローヨーなど副

充実して、子ども以上によく食べた。

くことも動いた。授業やって、組合活動やって、夜は家庭教師。

研究会、終れば川崎駅周辺のドブロク屋であやしげなモツ肉などで大追

会。あれよあれよという間に十キロ、二十キロと太ってしまったわけ。

太るのも健康のしるしなんて言ってた。若さにかまけて動きまわっていたから、

太ることや多少のカゼひき、頭痛、目まいなんか吹っ飛ばしてしまう感じだ

った。コーラは大ビンを買ってきて数時間で飲んでしまう。お酒やビールは

あまり好きではなかったから程々。その分ジュース、コーラで活躍するわけ。

水もとにかくよく飲んだ。やたらのどが乾く。お茶はコーラよりぃぃらしい

というのでお茶に切り換える。おしっこの回数がやたらと多い。フーテンの

寅さんのセリフを言いながら小便をするんだ。

『張っちゃいけないおやじの頭、張らなきゃ食えないチョウチン屋。きれい

な姐ちゃん立ち小便

などとわめきながら、その間に放出する。これも元気だからこそと思って

いたら、糖尿病の現象なんだって教わってびっくりしたね。いくら食べても

中華まんじゅう、あんパン、お汁粉、シュークリーム、中でも葬式まんじゅ

うの大きなやつを見ると嬉しくてペロリ⋯⋯。これも糖尿病の症状なんだっ

てさ。お酒が好きじゃないから、甘いものが好きなのが当然と思っていたけどすべては

糖尿病のせいだったんだよ。

そして仕事の合い間にすぐゴロンと横になって寝る。これも、健康だと思

い違いをしていた。単なるけだるさだけ。つまりすぐ疲れて立っていられな

から横になってしまう。これも糖尿病である証拠――。物がかすく

てきたり、疲れ目もそう。何よりもズボンがどんどん小さくなる。太って貫

禄がでてきたなんて、バカな事を自慢していたけど、これも糖尿病のなせる

わざなんだって。こりゃ大変なんだなって思ったわけよ」

糖尿病についての知識を学ぶことによって、この病気の持つ恐ろしさを感

じました。

しかし「肛門周辺腫瘍」が小さくなるにつれ「良いほうに向かっている」

と勝手に解釈してしまいました。

●糖尿病食のウンチク家となる

お医者さんと栄養士さんから指示された、一日一五〇〇〜一二〇〇キロカ

ロリーの量を守ったのは初めのうちだけ。せいぜい一か月ぐらいでした。

なによりもめんどうなのが「食品交換表」を使ってバラエティーに富んだ

食事を工夫するという事です。この「食品交換表」というのがめんどうくさい

<朝食〉米飯(お茶わんに軽く二杯)は二百二十グラム(表1)で四単位。

みそ汁はみそ小さじ二杯、十二グラム(付録の1)で〇・三単位。ねぎ三セ

チ、十グラム(表6)。わかめ少々四グラム(表6)〇・三単位。將

じ二分の一杯で三グラム。漬けものはきゅうり中ぐらいが五分の一で二十グ

ラム(表6)。牛乳は二百ミリリットル(表4)一・四単位。合計七単位。一

日一四〇〇キロカロリーの総単位は十八単位。

従って、残り十一単位を昼と夕食、それに間食に振り分けなくてはならな

い。そして食品はバランス良くとらなければならない。

初めのうちはクイズみたいにおもしろがって、電卓を使ってカロリを計算したり、個々の食事の算出をしたりしていました。

人に聞かれると、得意になって、

「七分づきのお米と精白米では単位が違ってくるんだ。胚芽米とか玄米なども加工別にみんな違うんだよ」

「へえ、胚芽米っていうのはどんなの」

「胚芽米も知らないの?おどろいたね。自分の食べてるものを知らないな

んて現代人の恥だよ」

とか、えばってウンチクを披露したものです。

「小麦の場合、三種類ある。まず薄力粉。一等、二等、学校給食用と三階級

に分類され、百グラム当たりのエネルギーは順に三六八、三六九、三六八で

2成分は糖質なわけ。二番目が中力粉で一等、二等。強力粉が一空

学校給食用。パン類も市販されているのは食パン、コッペパン。学校用は多

彩。食パン、コッペパン、ロールパン、ぶどうパン、フランスパン、ライ麦

パン乾パン。うどん、そうめん類はうどんが生うどん、ゆでうどん。学校給

食用は生うどんはなしで、ゆでうどん。

以下、穀類分類表だけで、かんめん・そうめん・ひやむぎ・手延そうめん

手延ひやむぎ・そば・千しそば・中華めん・蒸し中華めん・干し中華めん・

マカロニ・スパゲッティ・玄米・半つき米・七分づき・精白米・強化米・

飯・かゆ・おもゆ・赤飯・アルファ化米・もち・米ぬか・じょうしん粉・白玉粉・米こうじ⋯⋯」

っと穀類七十品目。お菓子は約九十品目。魚類、獣鳥鯨肉類、

鉄料類、野菜類などなど、初めは全部といわないまでも、大部

中に入れて「黙ってみればぴたりとわかる」オーソリティになろうと思いま

した。何しろ外食が多いのです。四日も五日も旅に出るとなると、家から持参というわけにいかないからです。


1  出されたものの中から選んで食べる

2  こちらから注文して、作ってもらって食べる

3  食べない

の中から選択しなくてはならない。

当然、バランスよく各食品からカロリーを計算して食べるようにする、と

いうことがめんどうくさくなってきます。

「食品分類表、日本食品標準成分表などを参考にすると役に立つ。大いに利

用して正しい食事療法を実行してください」

といわれるけど、これはとても無理な事だと思います。

最近、糖尿病患者が増えてきたという事から、いろいろの出版社が「食品

成分表アラカルト版」を発行しています。昭和四十年代では、科学技術庁発

行「日本食品標準成分表」なるものの抜粋か転載という形のものがプリント

されている程度でした。

とにかく自力で正しい食事療法によって糖尿病と仲よくして

こうという

当初の意気込みは、日が経つにつれて消えていきます。

まず、カロリー計算で一五〇〇〜一二〇〇キロカロリーの範囲があやふや

になってきます。たっぷり二〇〇〇キロカロリー以上、それもバランスのく

ずれた食品に片寄って食べた翌日は、「今日は一〇〇〇キロカロリーに押さえ

5パン、うどん、ごはんは食べないようにしよう。野菜中心にし

足して二で割れば一四〇〇キロカロリー、これはかたい」と、勝手

屈をつけて自分を納得させます。

それもめんどうになってくると「カン」で処理するようになります。

脂身のある牛肉は三日に一回、脂身なしの豚肉はレバー中心にして焼鳥で。

牛乳は無理しても毎日飲む。それも一日三回がいい。

ほうれん草やキャベッは糖質交換で、ごはんやめん類のかわりにしよう⋯⋯。

それもあやしくなり、三か月もたてばもう元に戻ってしまって糖尿病患者

であることすら忘れてしまいます。

検査をパスする法あり

来週が月一回の診療日となると、その前の約五日間、バランスの取れたよ

うな食事にします。

五日間、計十五食を気をつけると、お医者さん

目を大体ごまかすことが

できるのです。

血糖値は食事療法をキッチリやったからといって、

目に見えるほど急速に

下がるものではないことがわかったからです。

五日間節食すれば、それらしい数値になります。

「もう少し下がってもいいはずですがね」

「ハイ、努力しているんですが、なにぶんにも旅行が多く、ついカロリーオ

ーバーになってしまうんです」

「バランスよくとって下さいね」

「ハイ、がんばります」

、血糖値検査もなんとかパスする味を覚えると後は大胆になりま。

日間が三日になり、やがて前日だけ注意するか、まったく食事をしないでい

く。血糖値が高ければ「食後一時間半ぐらいです」とか言って、お医者さん

にニセの情報をつかませるわけです。

医者さんも、患者が多くて長くてもせいぜい五〜六分です。

見ていろいろ質問してきても、それは形が決まっているので

用意できます。

まして担当の先生が学会などでお留守だったら、一か月は「食事療法よ、

サヨナラ」という感じです。

時合室で顔なじみの人ができます。話をしてみると、みなさん違

り。

赤信号、みんなで渡ればこわくない」という気持ちになって

きったら再入院すればいい。私など、もう五〜六回入退院を組

ていますよ。糖尿病なんか恐がっていたんじゃ生きていられませんよ。

うまい物食べて、おいしいお酒を飲んで、それでこそ人生。それで早く死ぬんだったらいいじゃないですか。食べたいものも食べず、飲みたい酒も飲まずに

長生きしたってつまらないと悟ったんですよ。一年に一回の割で入院します。

結構いい休養になる。そこで食事療法を思い出し、退院して実行する。ズル

ズル戻る、また入院。いざとなれば手術でも何でも先生におまかせすればい

いんだから――。生きたいように生きてるんですよ」

というような人が出てくると尊敬してしまう。とてもそこまで居直るほど

の勇気はない。

「あれで結構、意気軒昂でいられ

いるんだから、

私ぐらいの違反はかわいい方

なのだ」

と思えてくる。そして、糖尿病患者であることをキレイさっぱり忘れてし

まう事になるのでした。

「あなた、インスリンの注射か、ビグアナイド剤飲んでいるかしてますか」

「いいえ、注射も、薬も飲んでいません」

「そりゃえらい。軽いですよ。わたしら注射も、薬もみんなやってきてます

よ。お砂糖とか角砂糖は持ってないですか?」

「知りません。何です。お砂糖って?」

「こりゃ驚いた。あんた本当に糖尿病ですか?」

こんな会話が安心へと導きます。

「私はまったく軽いのだ。驚きあわてる事はない。目が見えなくなったり、

合併症になるなんてずっと先の事。心配はいらないのだ」という考えが、頭を持ちあげてきました。

月二回の定期検診が一回になり、二か月に一回になり、やがて出かけるの

がおっくうになってやめてしまいました。

何かあっても、この大学病院には

足を向けられないなと思いました。

忙しさで糖持ちであることを忘れる

1〜2年が過ぎました。

肛門周辺腫瘍の方も落ち着いていたので

糖尿病の方は忙しさにかまけてすっかり忘れてしまいました。体重も八十四キロに

減って高値安定をしていました。テレビの公開番組の審査員の仕事で、毎週

全国をかけめぐる事になりました。北海道から沖縄まで、とにかくどこかの

諦市、町村にでかけてVTR取りをします。TBS系の「家族そろ。

という十六年続いた長寿番組です。番組そのもののおもしろさ

市、町、村の人びとの気質や性格がナマの形で出てくる事でも

したようです。

例えば、長野県の松本や長野では出演者は演歌を歌わないのです。子ども

なら「犬のおまわりさん」や「大きな古時計」などの童謡、親たちは「雪の

降る町を」「波浮の港」といった歌曲を歌うのです。これでは視聴率がとれな

いので、ゲストに演歌の北島三郎さんや都はるみさんといった人に出てもら

ってバランスを取る。また福岡県では出演者が「男一代無法松」などの演歌

バリバリ。そこで、ゲストは菅原洋一さんとかダーク・ダックスさんとの組

み合わせで、といった具合です。

約四年間付き合いました。おかげで「日本全国県別気質分類」といった資料集ができました。それを基に『気質別教育法』という「タイプ別子育て法」の

本を書く事ができました。

仕事の忙しさとおもしろさで、糖尿病患者って誰のこと?

って思うくら

い忘れていましたし、体調もそれなりに順調に見えました。

しかし、陰で病気は進行していたのです。全国巡回ですから当然、土地土

地のおいしい食事が楽しみです。もともとお酒類はそれ程飲まなくても平気

でしたから、発病以来やめていました。でも、食べるのは大好きです。北海

の釧路や網走、稚内となれば「いくら丼」。沖縄だったらアメリカ

キの三百グラム。博多、別府、下関とくれば「ふぐ鍋」。鍋ものの最後には進

んで雑炊作りをやり、「満腹」状態になると「人生食こそわが命」と、嬉しさ

がこみあげて至福の時を過ごすのでした。

自分のライフ・ワーク的な仕事ができて、グルメとして「いつか本を書こ

う」などと思っていました。土地のおいしい御馳走のほか、「駅弁」や「駅そ

ば」に凝りました。「どこそこの駅弁がうまい」ということを調べておいて、

秋田駅なら「かつどん弁当」、北海道の長万部なら「いか弁当」を必ず買い車内で食べて、グルメ点数をつける。また、駅ホームの立ち食いそば・うどん

も軒並み食べました。名古屋駅の中央線ホームの先端にある「きしめん」は

その場でゆであげ、お客にだす。味も三ッ星⋯⋯、なんてこともやってきま

した。「立ち食いそば・うどん評論家でも食っていけるな」と本気で思ったり

しました。

横浜・神戸・長崎の中華料理の比較、「あんまん、肉まん、ぎょうざの研究」

にも力を入れました。

気がついた時には、またまた体重九十キロになっていました。

●ついに内服薬につかまった

番組全体が終了して、われに返ってみたら、

・汗、それも脂汗がよくでる

・肩で息をしているのに気がつく

・駅の階段、それ程高くないのに立ち止まる

・のどが渇くのでガブ飲み。そのうえ冬でも氷を

 ボリボリかむ

・視力が落ちてきた気がする。遠くがかすんで見 える

・またぞろ肛門周辺が、かゆくなってきた

・ジンマシン的なかゆみがあちこちに出る

・尿中ブドウ糖検査用試験紙でやってみると茶色 2%

・小便の匂いが甘い

・パンツの一部が黄ばんでいるようになってきた

ックスのチャック付近の布地が弱くなってきて、ちょっと引

ただけでビリビリと破けるようになってきた

「これは、まずい」

と、感じました。いまさらT女子医大には行けません。

この頃の住まいは横浜市の戸塚区でした。昭和四十五年から住んでいまし

た。お正月の、大学駅伝の戸塚中継点の近くです。有名な松並木のある国道

一号線原宿交差点から、横浜ドリームランド方向に行った所に国立Y病院があります。


ここは末娘(男一人、女二人の子どもがいます)が三歳の時、「多発性髄膜症」(いわゆる脳膜炎)で入院治療、奇跡的に生命を救って頂いた所です。そこの小児科の主治医の先生の紹介で内科の先生に診療していただきました。

「かなり進んでいますね。血糖値が空腹時で一五〇前後です。今、急に合併

症どうのこうのというのはないけれども、食事コントロールをきちんとやっ

て下さい」

「以前、T女子医大でもそう言われました。何といっても仕事が多く、ほと

んど外食で、自前の食事は無理なんです。出されたものを選んで食べるよう

にしているのですが、やはり、ついつい食べ過ぎて⋯⋯」

「それじゃ食事のバランスをキッチリとって下さい。それと内服薬を一日一

錠出しておきましょう。なるべく飲まないにこした事はありませんが、完全

な食事コントロールができないのなら止むを得ませんね。月一回でよいですから、必ず検診に来て下さい」

ついに内服薬。

「しまった、これは大変だ!!」と思うより、「これで晴れて糖尿病患者なのだ」

というバカみたいな気持ち、一人前になったという感じがしたのです。

インスリンの注射まではいってない。「飲み薬を一日一回食後にとっていれ

ば、外食していても平気なのだ」という安心感が出てきてしまったのです。

今考えれば「どうして?」と思うのですが、「糖尿病そのものは病気ではな

い。それが引き金になってさまざまな病気になる。その徴候が私にはまだ起

きていないのだ」という間違った考え方がありました。

すでに目、歯、おしりにその徴候がハッキリと現れていたのに軽視してい

たのです。歯の痛みが上、下ともに発生、虫歯の痛みが頭にズキンズキンす

るくらいになっても市販の頭痛薬、歯痛止め、ぬり薬などでお茶をにごして

いました。連続した痛みではないので、すぐ忘れてしまいます。

「運動はどうしてます?」

「東京の事務所まで車で行ってます。戸塚から国電の横須賀線や湘南電車で

と思うのですが、バスは渋滞で駅まで一時間以上かかってしまうので⋯⋯。

めったに歩きません。休みもないので、地方へ行った時、意識的に散歩やジ

ョギングをしています」

「その程度では足りません。運動する努力をして下さい」

「食事のコントロールと運動が一番」ということはわかっていても実行でき

ないのです。

肛門の腫瘍が大きなウミをもってくるようになりました。ジュクジュクと

ウミがでてくるようになり、下着が汚れます。女性用のナプキンを、常時持

参しておしりに当てるようにしました。そのうち穴が塞がって、ウミが溜る

ようになるととても痛いのです。しかし、それがベチャッとつぶれると気持

ちがよくなり、お医者さんに相談することを忘れてしまいます。

私自身、自分の気質は「胆汁質型」の恥ずかしがり屋と分析しています。

糖尿病であることすら人に知られたくない。ましてや、おしりの周辺におで

きができていることなど⋯⋯。それが「痔」であるなんて、とても恥ずかし

くて言えるものではありません。

内科の先生にも言えません。

そうこうするうちに、主治医の先生が転任して他の病院へ行ってしまった

のです。

これが縁の切れ目で、国立病院へは行かなくなりました。あとは自力でやらなくてはなりません。薬はもちろん飲まなくなりました。

●ついに肛門周辺腫瘍の手術!!

肛門周辺の腫れが急速に大きくなり、とても座っていられないくらいにな

りました。ズキンズキンと頭のてっぺんまでそれが通じます。

昭和五十八年五月、大阪市内の松坂屋百貨店内でした。私の事務所でお世

話している、風の画家中島潔先生の個展会場でした。脂汗が出てきて、口の

中はよだれでいっぱい、後から後から出てくる感じ。おしりはパンパンに腫れあがり、個展会場裏のすみっこで、うつぶせになっていました。

松坂屋の診療所の女医さんが診てくれる事になりました。おしりを女の先生に診てもらうなんて、と拒みましたがとうとう折れました。

「これは、ちょっとどう処置していいものかわかりませんね。痛み止めの薬

をあげます。なるべく早く専門の先生に診せてください」との事でした。

幸いその日が最終日でした。

小柄な中島先生に、おんぶしてもらうかっこうで飛行機に乗りました。家

に帰っても七転八倒。とてもがまんできないので息子にトイレでウミを出し

てもらいました。ピューッとどす黒い血しぶきがいっぱい飛び散りました。

スカーッと何事もないような気分のよさに変わりました。

事務所のマネージャーが心配して、親戚の人が教授をしている東京の1医

大を紹介してくれました。こんな思いをするなら、肛門腫瘍を手術して悩ま

なくていいようになりたいと覚悟しました。それくらい痛い日々でした。

入院してまず検査。いろいろの検査がありました。その結果「空腹時血糖

が五〇から六〇もありますよ。こんな状態では手術はできませ

は、糖尿病がかなり進んでいる事からきているのですよ」という話です。

「とりあえず血糖値を下げるために食事は一日一二〇〇キロカロリー制限。

血糖値一八〇以下に下げてから手術をします」

「まあ、仕方がない。この際、食事療法をキチンと実施して完全に治すぞ」

と急に優等生になりました。

三日程してから内科の先生が病室に来て、

「あなたの糖尿病はコントロールをキッチリすれば、すぐ良い結果が出ると

いうタイプのものです。一応、手術をする状況にまでなりました。しかし、

退院後は内科へ月一回の割合できちんと通院してください」

と言われました。

ここなら事務所から近いし、第一この病院、いわゆる病院らしくないのが

に入ってました。病人が病人らしくない、自分は病人で先がない、

感じがしない。何となく元気がでる気がしてくるムードを持

ました。

こんどこそ、キッチリと治療しよう。先生の指示にも忠実に従おうと決意

しました。

手術も無事に終わり、外科の先生から、

「まず再発はないと思うくらぃ、きれいに取りましたから。あとは糖のコン

トロールです。それ次第で再発ということもあります。内科できちんとやっ

て下さい」

という指示を受けました。十年以上のおしりの痛みからの解放には思わず「バンザーイ」と叫ばずにはいられませんでした。

●先生をだましてきた酬い

J大付属病院は港区にあり、一日二千人以上の患者さん、救急車で来るケガ人、急病人で野戦病院のようなあわただしさがあります。

内科はいくつものテーマ別に診療室が分かれています。糖尿病専科の診療

室には、何人もの先生が午前/午後に分担して患者を診ています。朝八時三

十分から血糖検査が始まります。診察カードの提出順です。診療開始は九時

らです。予約制ですから人数は決まっていますが、カード提出の日

待ち時間が二時間、三時間になってしまいます。初めのうちはゆっ

血糖検査開始時間をめどに行っていました。これでは待ち時間が長くなるの

で朝五時ごろ車で家を出、いったん事務所で休んでから歩いて病院まで来ま

それがだんだん八時頃から、八時前、七時半頃というようにエスカレートしてきます。

順番取り競争になるわけです。

血糖値測定は耳から血を採ります。三か月に一回の割合で血液検査があり

ます。これは腕から採ります。耳から採った結果は五〜十分後に「ハイ、阿

部さん一六〇です」と日頭と数値記入紙で知らされます。同時に、尿採取で

尿中のブドウ糖検査を自分でやります。この二つは担当の先生の診察の時に

渡します。血液検査の結果は次の月でないとわかりません。

通路にある椅子に腰かけて待ちます。この椅子確保も大変なので、早く出

て来る原因の一つです。あとは担当医の専用マイクで「阿部さん、阿部さん、

1番にお入りください」のコールを待つだけです。新聞、雑誌あれこれ持っ

ていきましたが文庫判ものが待合席にはぴったりなので、以後それにしてい

ました。

診療室に入ります。

四つに区切られていて、それぞれに先生がいます。

担当の先生は決まって

います。

まず、尿糖検査紙を渡します。血糖検査の時に渡された検査紙をトイレで

放尿して浸します。陰性、痕跡、+、++、+++⋯⋯の割合で尿の中に糖分が出ているかを見ます。私は今まで陰性(0)はありませんでしたが+++

(1%)もありません。悪くて二分の一%の++、四分の一%の+です。

「少し出ていますね。薬はちゃんと飲んでいますか。もう半分増やしましょ

う。それで様子を見てみましょう」

というわけで経口錠剤が毎食一錠、症状によって一錠半になったりします。

「食事療法をきちんと守られていますか。体重は減っていないようですね。

減るように食事をきちんとしてください。最近、食事の学習会には出席して

いますか?」

「すみません。忙しくて⋯⋯。外国に行っていたものですから――」

「自分の体ですからね。忙しくても、ちゃんと守ってください。時間がたつ

と入院していた当時のあれこれを忘れます。それでもとに戻って再入院とい

う事になる人が多いのです。今日は一六五ですか?これは食後でしょうね?」

「⋯⋯ハイ、食後です」

どうしても食前といえなくて、ついつい食後と答えてしまうのです。

食前では血糖値が高い。食後二時間ではまずまず⋯⋯。先生は安心する。

こちらを疑っていない様子でホッとする瞬間です。

一か月間の自己血糖検査表を見てもらう。多少の違いがあっても、食前一

0から一五〇ぐらい、食後一九五から二一〇ぐらいに並べておく。そ

にズルしているわけではないが、実際には二五〇〜三〇〇になる時も一、二

回あるのです。一か月大体十五回ぐらい測定します。高かった日のは故意に

記入せず、その反省で二、三日食事のとり方を自粛するので、それで測定し

た時は必ず低くなっているのです。つまり血糖値の高い日のは記入せず、比

較的高値安定だが落ち着いている、というふうに見える情報を先生に流して

いたことになります。

まんざらニセ情報ではないのです。都合の悪いデータを抜いて、その上つ

じつまを合わせるために、診察日の三〜四日前から自粛の食生活に入るわけ

です。こうすると自己検査表と、診察当日病院側による精密器具による検査

との誤差が少なくなるのです。

悪い人は血糖値が三〇〇とか五〇〇でも、酒を飲んだり、トンカツやうなぎを食べても大丈夫なんだという話を聞きます。

「酒もうまいものも、飲んだり食べたりできない人生なんて、死んだ方がま

しだ。でも、まだ死なないでピンピンしていますよ。糖尿が何だ、食事療法

なんてクソくらえですよ。やりましょう」と誘われるとその気になります。

「悪いといっても三〇〇なんてなったことはない。空腹時だって二〇〇を越

えたなんてことないもの。合併症なんていうのは、この人たちがなるもんだ。

まだなっていないんだから、私なんてまだまだ先の話。いざという時は、再

入院すればいい」

ココ

まさに赤信号、

みんなで渡ればこわくないのだ、の

⋯⋯になってし

まっていました。

診察の帰り、医局の窓口で薬をもらいます。自分の番号のランプが点燈す

るのを待つ時間が楽しみなのです。

帰りに何を食べようかとあれこれ考えます。ぎょうざとラーメンにするか

それとも天丼がいいかな、うな重にしようか⋯⋯。

無茶苦茶をやっていたわけではありません。どうしても食べたい、もうが

マンができないというギリギリまでは、

一応禁じられているものやカロリー過剰なものはとらないようにしてきていました。検査が終わったら、あと一か月はサヨナラだと気分がゆるみます。今日一日だけ気ままに食べよう。

だってお酒もタバコもやめているのだし、一応優等生の下の方であっても守っているのだから――。

「糖尿病の人の体質は、一生変わりません。食事療法も一生続けなくてはい

けないんですよ。でも、糖尿病の食事療法は量の点を除けば、健常者の食事

とちっとも変わらなくていいのです。指示されたものを守っていれば栄養失

調になったり、仕事を休む必要はありません。栄養のバランスを考えた食事

をとること、特にあなたのように外食がほとんどの方はとりわけ注意してく

ださい。インスリン注射を打たなくていい状態なのですから自覚してやって

ください」

と担当の先生はやさしい。

に応えたいためにニセの情報を作り、先生の判断を混乱させ

たになってしまったわけです。眼科からの報告を聞かれた時、先

くりされていました。何かの間違いではないか、そんなに急速に手術が必要な状況にまでなるはずがない、と言われました。

四月になって重ねて眼底検査、視野検査などがありました。結果は同じで

やはり六月手術ということに変わりませんでした。

「私はロンドンの日本人対象の診療所に数年勤務することになりました。心

りですが後のことは×x先生が診てくれます。xx先生の指示に

生を続けてください」

と担当の先生は転勤されていきました。

先生をだましだまししてきた結果がこれです。とても親身になって診てく

れたのに、痔の手術の時からずっと続けて診てくれたのに⋯⋯。自業自得で

す。酬いが来たのです。

自分が悪いのはわかっています。

「さて、どうしたものか」

と思案に暮れている時、花博「いのちの塔」も騒然としていました。

万博は華やかに始まりましたが、塔の方はトラブル続きでした。


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