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驚愕
"まちがいなく失明します。時間の問題です。
一応手術しましょう。でも気休めです。"
【わが闘病に悔いがあった】
平成二年三月二十七日、東京J医科大学付属病院の眼科の先生からそう宣告されました。
「精密検査の結果がでました。糖尿病患者として、もっとも恐れている『糖尿病性網膜症』です。糖尿病性の目の病気の中では、いちばん恐ろしいもの
です。眼底の網膜に起こる病気で、網膜には細い血管と視神経が集まっています。
ここを冒されると失明します。
現状は、初期の段階からかなり進んでますよ。
小出血があったり白斑が網膜のまわりに現れ、現在では黄斑部がっています。こうなると中心暗点や網膜剝離などの視力障害が現れ、やがて失明です」
眼科の先生は淡々と説明してくれました。
私は「失明です」という事だけが頭に残りました。ガンガン音を立てて、
「矢明、失明、目が見えなくなる、目がだめになる」
と、後のことはまったく上の空。
「聞いていますか?」
「ハイ、聞いています」
「手術ですか?」
「そうです。もう少し様子を詳しく見てから決めましょう。六月頃、予定して下さい」
「手術をすれば治るんですか」
「治りません。進行を阻止するだけです。広がっている部分をレーザーで焼きます。
焼いたところは回復しません。
その間、内科の先生の指示で糖尿病そのものを
コントロールして下さい。後のことは何ともいえません」
「糖尿のコントロールをすれば失明は防げるんですか」
「まず無理ですね。ここまで米るといつ失明してもおかしくない状態です。
半年先か、二、三年先かわかりませんが確実に悪い方向に向かっているので
す。内科の先生には通告しておきますから。お大事に⋯⋯」
いつ失明してもおかしくない」と先生は言われましたが
こっちは大変です。
大事件、それも自分そのものです。
こんな大変なことを、よくもまぁ冷たく
患者に言えるもんだなと、先生を恨む気持ちの方が大きくなりました。
内科診療室には毎月一回、ここ五年来通っていました。確実に休むことも
なく毎月必ず検査を受けにきていました。その限りでは模範生だと思ってい
ました。
「いざとなったら先生が診ていてくださる。何かおかしい事があれば先生が発見してくれるだろう」という甘えたところがあり
この年に入って目前に迫った国際花と緑の博覧会の仕事にかかりっきりでした。花博のシンボルタ
ワー、生命の大樹「いのちの塔」建設百万人会員募集の委員長という仕事を引き受け
全国の子どもと親に参加してもらう呼び掛け人となって活動していました。
四月一日、万博開催日に聖火リレーよろしく、新潟県味方村を出発して、
シンガーソングライターの高石ともやさんが、その仲間たちと自転車で千キロを走破するのです。新潟→群馬→埼玉」東京→神奈川→静岡」愛知し岐阜
→滋賀→京都→大阪。私は、それに併走するバスに乗って一緒に走る予定になっていました。
運営実行委員長です。各県の県庁、市役所、町・村や、新聞社、テレビ局などにごあいさつをして、花博やいのちの塔の意義を理解していただくためのイベントです。
二十七日、新潟出発の前日にこの宣告を受けたのです。
病院の帰りの道、もうすでに失明してしまったような感じでした。ボーッとして歩いて
港区麻布台の事務所まで帰りました。
どこをどう通ったのか、よく覚えていません。
虚脱状態で数時間過ごしたようです。
ここ数か月、体全体の調子がおかしかったの
。
まず、目が充血して涙が出ると痛い。塩っからい感じがする。体重は八十
九キロ。足取りは重く、胸が時々キリキリ痛む感じ。ちょっと歩いただけで
ハァハァ、休み休み歩く。すぐ座りたくなる。生あくびが何回も出る。眠い。
それにお腹がすく。いま食べたばかりなのに間食をしてしまう。干し芋の袋
を二つも三つも買ってきてダラダラと食べてしまう。
内科の検診日にはちゃんと行くのですが、何とかごまかしてしまう。
診療は、ほとんど問診。
ここである程度ごまかすことができます。
しかし、その前の血糖検査ではハッキリと数値が出てしまうので
180、220.190といった数値を、
食前なのに食後二時間と偽り、先生に報告していたのです。
私を、患者を信頼している先生は、それに基づいてアドバイスをしてくれます。
「ああ、その時々のごまかしが、その酬いが、こんな形で出てしまった!!」という恐れと
担当の先生に対する申し訳なさが、悔やまれてならなくなりました。
T女子医大から始まって国立Y病院、
そしてJ医大属病院。
病院を変えるたびに糖尿病患者としての自覚がなくなり「大したことはない。この程度続けていけば、けっこう健常者と同じでいられるのだ」という生き方になっていたのです。
「この頃、食事療法はしていないのですか。
何でも食べられるようになったのですか?」
「ハァ、大体のものは食べられるのです。元気になっているんでしょう」
こんな、やり取りで過ごしてきていました。
「合併症なんて怖くない。この程度なら
大安心まではいかなくても、まずまず安心」
それらの酬いが、一気に情け容赦もなくやってきたのが「網膜症失明告知」なのです。
「まあ、今まで好きにやってきたのです。
医者の忠告も聞かずやってきたのですから、いいじゃないですか。
あきらめるんですね。キッパリと⋯⋯」
という声も聞こえてきます。
いまさら、後悔してみても始まらないとあきらめる気にはなるのですが、
未練がすぐにそれを打ち消します。
レーザー光線で焼くといっても、大丈夫な部分も沢山残っているわけです。
今ダメになっているところだけ、とりあえずそれ以上広がらないようにしてもらって、
今度こそ、お医者様をごまかさない本当の食事療法や運動をキッチリやろう。
まだ光明は残っているのだ、あまり思いつめない方がいい。
すべては、いのちの塔のキャンペーンキャラバンから帰って決めよう。
とりあえず、食事に気をつけながら出発しよう。
高石ともやさん率いるキャラバン隊は、新潟県味方村から出発しました。
高石さんは健康そのもの。
ふもう五十歳になるというのにオーストラリア一千キロマラソンに出場したり、各長距離マラソン、自転車ロードレース、トライアスロンなどに参加してすばらしい成績をあげています。
味方村を出発して高崎までが、
第一日のコースです。難所の三国峠を自転車で登るのです。
こっちはバスで一緒に走っているだけですが、疲れてしまいます。
病人の私の方が、体を使っていないのにくたびれてしまいました。
二日目は、東京を越して小田原、そして箱根峠越えで静岡県三島まで。これもすごい。
三日目は、三島から名古屋。四日目は、京都。そして五日目の朝、大阪万博会場に元気な姿を見せてくれたわけです。
「健康であると、こんなに素晴らしいことができるのだ」ということを
高石さんは教えてくれました。
「いのちの塔に、いのちを奉納に新潟県からやって来ました。初代会長の平澤先生の心を、生まれ故郷の味方村から持ってきました。
すばらしい輝きじゃありませんか」
夜空に力強く立つ、高さ九十メートルのいのちの塔が、心臓の鼓動を伝え
るように動いて見えました。
「阿部先生、長い道中ホントウにお疲れ様でした。長かったでしょう。ゆっくり休んでください。私はまた走って、京都の自宅まで帰りますから」
まったくの驚きです。あれだけ走ってきて、まだ京都まで走って帰るなんて。
この人の底知れない生命力、体力、行動力は、どこから生まれてくるのだろうか。
「少しでも休んでくださいよ」
「いや、走ることが休むことなんです。私は、走る前に大病しましてね。そ
こで、生き方を思いっきり変えてみようと思ったのです。走ることで、健康な体になってくる。
体が良くなってくると、心がとても軽くなってくる。あれこれ苦しんでいたことが、ウソみたいに消えていくんです。もう走るもんか、これで最後にしようと思っていたのに、終ってホッとする間もなく走りたくなってくる。それで今はどこも悪くないんです。ああしんどいと思いながら、
帰りはどの道を走ろうかなんて考えている。
いざ帰ろうとすると、そうだ、あの道を走るんだったっけと思い出してまた走ってきた。それだけなんですよ。ストレスも消えました。
だからコンサートで思いきり、歌うことができるわけです。歌っていると走りたくなる。
ああ、生きているっていいなあって感じるわけですよ。阿部先生も一緒に走ってみませんか。
一緒にコンサートやってみませんか。
いいもんですよ。でも今はとても疲れているように見えます。休んでください。
元気が回復したら、いっしょに走りましょう。
じゃ、さようなら」と、
元気に帰っていきました。
そうだ。四月一日、今日から自分も生まれ変わろう。失明したらしたでい
いではないか。それまで何とか努力しよう。
まだ見えている間、見おさめに
精いっぱいこの目に焼きつけておこうと考えたのです。
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