表の裏は、裏。
裏の裏は、表。
物事にはすべからく表と裏があります。
光と陰。
男と女。
南斗聖拳と北斗神拳。
なにをもって表とするか、どのようなことを裏と見なすかは別として、すべての事象は文字通り表裏一体で、しかもそれが複雑に絡み合っています。
ある一線を境にして表から裏に変わり、またある一線から今度は表に変わります。
1人殺せば悪人、10人殺せば大悪党、100人殺せば英雄、10000人殺せば悪魔…。
いつの時代もこの世は混沌のなかにあり、確かなものなど1つもないのです。

僕はいまも混沌のなかに在りますが、20歳前後のころもやはり混沌のなかに在りました。


10代の終わり頃、こんな噂を耳にしました。
『O町に、洒落た美容室ができたらしい』
すぐさま、僕は噂を否定しました。
“アホか。O町に洒落た美容室などできるわけがない”
O町とは、僕が生まれ高校生まで育った町です。
S私鉄沿線の特急が停車する駅としては最小で、住民も『オラがトコが一番』という村気質の強い町です。
コンビニエンスストアでさえ、僕が高校を卒業した翌年にO町1号店ができたような町なのです。
当時神戸に住んでいた僕は、噂を鼻で笑って黙殺しました。

しかし、地元に帰った際、駅を降りると、確かに見慣れない美容室の看板が立っていました。
好奇心に駆られた僕は、ちょうど髪が伸びていたこともあり、駅から徒歩1分のその美容室に散髪しにいくことにしました。
すると…。
これが確かに洒落ているのです。
外観は言うに及ばず、働いている人たちもお洒落ならば、髪を切りにきているお姉さんがたも洒落ているのです。
“なんでO町なんかにこんな洒落た美容室が…”
まさかそんな問いを美容師さんにぶつけるわけにいかず、僕はさっぱりした頭で美容院をあとにしました。

それからです。
すっかりその美容院を気に入った僕は、月に1回O町に帰り、髪を切ってもらうことにしました。
理髪技術やお店の雰囲気はもちろんですが、僕がその美容室に通うには、もう1つの大きな目的がありました。
それは、“顔剃り”を担当してくれていたお姉さんです。
残念ながら体毛が濃い体質に生まれてきた僕は、当時から髭が濃いめでした。
そんな僕のあごをお姉さんはこねくり回すようにして、きれいに髭を剃ってくれるのです。
可愛らしい顔立ちをしたそのお姉さんは、優しく繊細な指先で顔中を触りまくってくれました。
そのたびに、
『そ、そんな美しい指でそんな大胆に肌を触られたら。ボクはもう、もう…』
『もっといやらしく触ってみろよ。どうせおまえは違う男にも毎日毎晩こねくり回してんだろ!』
という相反する2つの感情に心をかき乱されました。
生理的に気持ちよいのはもちろんですが、はっきり言ってしまうと性的にも気持ちがよかったのです。

性体験の有無にかかわらず童貞気質な僕は、お姉さんをどうこうしようなどという大それたことは考えさえ及ばず、したがって僕の屈折した欲望をお姉さんに気付かれるはずもなく、月に1回の愉しみとして、美容院通いが始まりました。

そうして1年が過ぎた頃でしょうか。
性懲りもなく僕は、期待にいろいろなところを膨らませつつ美容院のドアを開け、受付を済ませました。
ソファーに座って紅茶なんかを飲んでいると、自分の名前が呼ばれました。
『Miltzさん、お願いします』
その瞬間、僕は今日このときに美容院に来てしまったことを心底後悔しました。
文字にするとわからないでしょうが、なんと男性美容師が声をかけてきたのです。
『あの、いつものお姉さんは?』
などと聞けるわけもなく、うなだれたまま理髪用の椅子に座りました。
隙をみてあたりを見回すと、やはりいつものお姉さんは居ません。
『じゃ、顔剃りからはじめますね』
という笑顔の男性美容師に、
『自分のケツでも舐めてろ、ゲス野郎!』
などと返せるわけもなく、諦めて目を閉じました。
瞼の上に熱いタオルがかぶさり、顔剃りが始まりました。
“畜生! 男にツラ触られても嬉しくもなんともねぇよ”
心のなかで悪態をつこうとしたのですが、どうも様子が変なのです。
様子が変というか…、はっきり言って気持ちがいいのです。
熱心に肌を揉みほぐしこねくり回し、軽くつまんだりしながら剃ってくれています。
その繊細な指の動き、そして気持ちよさは、いつものお姉さんに勝るとも劣りません。
“こいつ、なかなか上手いこと剃りよるやんけ”
などと強気でいられたのは初めだけでした。
ストレートとして必死に抵抗したのですが、体は正直に快感を快感として受け入れ、そして次第に心にまで変化が始まりました。
“兄さん、その辺にしとかんともうそろそろアレやでぇ”
“ちょっともう、いい加減にしぃや自分…”
“ボクはそんなつもりで来たんじゃないんだから…”
“そんな風にされたらいくらアタシだって”
“もう… わかったわよ。1回だけだからね”
観念して、ベルトを緩めようとしたそのときです。
『お疲れさまでした』
というきれいな声とともに、瞼の上のタオルが取り払われました。
なんと、そこにはあの可愛らしいお姉さんの笑顔がありました。
どうやら、僕が目を閉じてから男性美容師からお姉さんに交代したようなのです。
“あんたは… あんただったのか”
心のなかでつぶやき、心のなかでお姉さんにそっと口づけをしました。


余談ですが、上京したての頃、バイト先のピザ屋で約1年間、女性店員にのみホモを自称していました。
いまとなっては、当時の自分がなにをしたかったのかさっぱり理解できません。

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今日の映画:クルージング 1979年 アル・パチーノ主演
      自分の価値観が根底からひっくり返りそうになるとき、ありますよね。