フィニッシュ・ホールド(Finish Hold):プロレスにおいて、3カウント/ノックアウト(10カウント)/ギブアップなど、勝ちを獲るための決め技。スープレックスや関節技、打撃系など、押さえ技に限らない。
日本の男性が弱くなったと、巷で喧伝されています。
『いまの若い奴は…』的な言い草はオッサンの戯言に過ぎず、基本的に好きではないのですが、これには同意せざるを得ません。
なぜなら、ほとんどの若者が、この質問に即答することができないからです。
『あなたのフィニッシュ・ホールドはなんですか?』
一昔前ならば、名刺交換の際にお互いのフィニッシュ・ホールドを確認し合うのが、ビジネスマンの常識でありマナーでした。
僕も初めて就職した際、新人研修で講師に、
『いいかおまえら。自分のフィニッシュ・ホールドをいますぐ見つけるんだ!』
と喝を入れられました。
同期の奴らが慌ててフィニッシュ・ホールドを考えるなか、僕は悠然と構えていました。
目ざとい講師は、すぐに切り込んできました。
『ほう…。Miltzとかいったな。まさかおまえ、もうフィニッシュ・ホールドがあるのか?』
僕は自信たっぷりに、こう言い放ちました。
『スープレックスならバックドロップ、関節技ならワキ固め、打撃系ならエルボです』
それを聞いたときの講師の驚嘆した顔、同期の奴らの羨望の眼差しは、いまも忘れません。
記憶に残るプロレスラーというのは、例外無く自分のムーブ、そしてフィニッシュ・ホールドを持っています。
上記の技で言うならば、ジャンボ鶴田のバックドロップ、木戸修や藤原喜明のワキ固め、三沢光晴のエルボです。
“プロレスの心”を知らない人がこれを読めば、こう言うかもしれません。
『なんだ、ぜんぶ初歩的な技じゃないか!』
そういう人たちには、僕はこう言い返すことにしています。
『失せろ、ケツのアナ野郎!』 効果音:ゴゴゴゴゴ
確かに、バックドロップもワキ固めもエルボも、プロレスラーを自称する者ならば誰しもが出来る、初歩的な技です。
しかし!
誰でも出来るが故に、これらの技は難しいのです。
誰でも繰り出すが故に、技の優劣が一目で分かってしまうのです。
しかも、たとえこれらの技を使いこなせていたとしても、観客に自分の決め技だと認められなければ、フィニッシュ・ホールドとして使うことは御法度です。
例えばバックドロップ。
“プロレスの天才”の名をほしいままにする武藤敬司でさえ、バックドロップで観客を納得させることはできません。
もしも“カリスマ”アントニオ猪木がワキ固めでギブアップを奪えば、観客は唖然としてしまったことでしょう。
エルボに至っては、基本的に痛め技・繋ぎ技ですので、三沢光晴以外がフィニッシュ・ホールドに使えば観客から『手抜きすんな!』とブーイングが起こります。
ミハエル・シューマッハがバイクレースで上位入賞すればマスコミからもてはやされますが、プロレスラーが他レスラーのフィニッシュ・ホールドで勝利しても、誰も祝福してくれません。
そうです。
フィニッシュ・ホールドとは、プロレスラーのアイデンティティであり、代名詞であり、レスリングスタイルそのものなのです。
プロレスラーが自分のレスリングスタイルを確立するということは、自分のフィニッシュ・ホールドを確立し、それにつながるムーブを確立し、そしてそれを観客に認知させることに他なりません。
ちなみにムーブとは、レスラー固有のアクション(お約束)のことです。
たとえば、アントニオ猪木がリバース・インディアン・デスロックを繰り出すときに叫ぶ『ヘイヘイヘイ!』。
たとえば、スタン・ハンセンがウエスタン・ラリアットを繰り出すときの、肘パッドを直す仕草。
永源遙の唾飛ばしや、ラッシャー木村のマイクパフォーマンスも、一種のムーブと言えるかもしれません。
観客は、ムーブが多ければ多いほど沸きたちます。
なぜなら、プロレスとは観客参加型のパフォーマンスであり、レスラーと観客が渾然一体となって創りだす筋書きが微妙なスポーツだからです。
しかし、フィニッシュ・ホールドは1つ、多くても3つくらいまでに収めねばなりません。
それ以上多かったら、観客は応援のしどころが分からなくなってしまうからです。
優れたプロレスラーほど、自分のフィニッシュ・ホールドを非常に大切にしました。
カタチだけなら幼稚園児でもできるラリアットを、無敵のフィニッシュ・ホールドとして体得したスタン・ハンセンは、こう述べています。
『相手にダメージを与えるだけ与え、ここぞという場面でウエスタン・ラリアットを繰り出すようにしていた。ラリアットをやるときは、いつでも1発で決めるつもりだったね』(うろ覚えです)
ハンセンのウエスタン・ラリアットは、名実共に最強のフィニッシュ・ホールドでした。
僕が高校生のときには、“鶴田のバックドロップ”と“ハンセンのラリアット”、どちらが一撃必殺かという話題で激論し、友人と胸ぐらをつかみ合ったことがあります。
日本プロレス創世記。
フィニッシュ・ホールドは、ボディスラムやブレーンバスター、空手チョップなど、シンプルなものでした。
僕が新日/全日に夢中になっていた頃には、多種多様なフィニッシュ・ホールドをレスラーが開発していました。
現在ではスピーディかつ華麗な非常に難易度の高い、または説得力はあるが危険性の高いフィニッシュ・ホールドが多数存在します。
ですが、技術の向上や多様化に比例して、プロレス人気は上がったでしょうか?
残念ながら、答えは“否”です。
どこかの誰かが、こんな名言を残しています。
『プロレスとは、シュートを超えた闘いだ』 ※シュート=真剣勝負
プロレスは、観て、応援して、参加して、ハートを熱くして楽しむスポーツです。
プロレスの復活を、心から熱望します。
余談ですが、ジャンボ鶴田が三沢光晴にフェイスロックでギブアップ負けしたとき、高校生だった僕は、深夜2時過ぎにテレビの前で号泣しました。
あのときの熱いハートでプロレスを観る日が、再びやってくるのでしょうか。
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今日の映画:レスラー ミッキー・ローク主演
ただひたすらに、リアルです。
今日の動画:http://www.youtube.com/watch?v=8E0e9RgVNvI&feature=related
“Jのテーマ”を聞くと、いまでも胸が熱くなります。

日本の男性が弱くなったと、巷で喧伝されています。
『いまの若い奴は…』的な言い草はオッサンの戯言に過ぎず、基本的に好きではないのですが、これには同意せざるを得ません。
なぜなら、ほとんどの若者が、この質問に即答することができないからです。
『あなたのフィニッシュ・ホールドはなんですか?』
一昔前ならば、名刺交換の際にお互いのフィニッシュ・ホールドを確認し合うのが、ビジネスマンの常識でありマナーでした。
僕も初めて就職した際、新人研修で講師に、
『いいかおまえら。自分のフィニッシュ・ホールドをいますぐ見つけるんだ!』
と喝を入れられました。
同期の奴らが慌ててフィニッシュ・ホールドを考えるなか、僕は悠然と構えていました。
目ざとい講師は、すぐに切り込んできました。
『ほう…。Miltzとかいったな。まさかおまえ、もうフィニッシュ・ホールドがあるのか?』
僕は自信たっぷりに、こう言い放ちました。
『スープレックスならバックドロップ、関節技ならワキ固め、打撃系ならエルボです』
それを聞いたときの講師の驚嘆した顔、同期の奴らの羨望の眼差しは、いまも忘れません。
記憶に残るプロレスラーというのは、例外無く自分のムーブ、そしてフィニッシュ・ホールドを持っています。
上記の技で言うならば、ジャンボ鶴田のバックドロップ、木戸修や藤原喜明のワキ固め、三沢光晴のエルボです。
“プロレスの心”を知らない人がこれを読めば、こう言うかもしれません。
『なんだ、ぜんぶ初歩的な技じゃないか!』
そういう人たちには、僕はこう言い返すことにしています。
『失せろ、ケツのアナ野郎!』 効果音:ゴゴゴゴゴ
確かに、バックドロップもワキ固めもエルボも、プロレスラーを自称する者ならば誰しもが出来る、初歩的な技です。
しかし!
誰でも出来るが故に、これらの技は難しいのです。
誰でも繰り出すが故に、技の優劣が一目で分かってしまうのです。
しかも、たとえこれらの技を使いこなせていたとしても、観客に自分の決め技だと認められなければ、フィニッシュ・ホールドとして使うことは御法度です。
例えばバックドロップ。
“プロレスの天才”の名をほしいままにする武藤敬司でさえ、バックドロップで観客を納得させることはできません。
もしも“カリスマ”アントニオ猪木がワキ固めでギブアップを奪えば、観客は唖然としてしまったことでしょう。
エルボに至っては、基本的に痛め技・繋ぎ技ですので、三沢光晴以外がフィニッシュ・ホールドに使えば観客から『手抜きすんな!』とブーイングが起こります。
ミハエル・シューマッハがバイクレースで上位入賞すればマスコミからもてはやされますが、プロレスラーが他レスラーのフィニッシュ・ホールドで勝利しても、誰も祝福してくれません。
そうです。
フィニッシュ・ホールドとは、プロレスラーのアイデンティティであり、代名詞であり、レスリングスタイルそのものなのです。
プロレスラーが自分のレスリングスタイルを確立するということは、自分のフィニッシュ・ホールドを確立し、それにつながるムーブを確立し、そしてそれを観客に認知させることに他なりません。
ちなみにムーブとは、レスラー固有のアクション(お約束)のことです。
たとえば、アントニオ猪木がリバース・インディアン・デスロックを繰り出すときに叫ぶ『ヘイヘイヘイ!』。
たとえば、スタン・ハンセンがウエスタン・ラリアットを繰り出すときの、肘パッドを直す仕草。
永源遙の唾飛ばしや、ラッシャー木村のマイクパフォーマンスも、一種のムーブと言えるかもしれません。
観客は、ムーブが多ければ多いほど沸きたちます。
なぜなら、プロレスとは観客参加型のパフォーマンスであり、レスラーと観客が渾然一体となって創りだす筋書きが微妙なスポーツだからです。
しかし、フィニッシュ・ホールドは1つ、多くても3つくらいまでに収めねばなりません。
それ以上多かったら、観客は応援のしどころが分からなくなってしまうからです。
優れたプロレスラーほど、自分のフィニッシュ・ホールドを非常に大切にしました。
カタチだけなら幼稚園児でもできるラリアットを、無敵のフィニッシュ・ホールドとして体得したスタン・ハンセンは、こう述べています。
『相手にダメージを与えるだけ与え、ここぞという場面でウエスタン・ラリアットを繰り出すようにしていた。ラリアットをやるときは、いつでも1発で決めるつもりだったね』(うろ覚えです)
ハンセンのウエスタン・ラリアットは、名実共に最強のフィニッシュ・ホールドでした。
僕が高校生のときには、“鶴田のバックドロップ”と“ハンセンのラリアット”、どちらが一撃必殺かという話題で激論し、友人と胸ぐらをつかみ合ったことがあります。
日本プロレス創世記。
フィニッシュ・ホールドは、ボディスラムやブレーンバスター、空手チョップなど、シンプルなものでした。
僕が新日/全日に夢中になっていた頃には、多種多様なフィニッシュ・ホールドをレスラーが開発していました。
現在ではスピーディかつ華麗な非常に難易度の高い、または説得力はあるが危険性の高いフィニッシュ・ホールドが多数存在します。
ですが、技術の向上や多様化に比例して、プロレス人気は上がったでしょうか?
残念ながら、答えは“否”です。
どこかの誰かが、こんな名言を残しています。
『プロレスとは、シュートを超えた闘いだ』 ※シュート=真剣勝負
プロレスは、観て、応援して、参加して、ハートを熱くして楽しむスポーツです。
プロレスの復活を、心から熱望します。
余談ですが、ジャンボ鶴田が三沢光晴にフェイスロックでギブアップ負けしたとき、高校生だった僕は、深夜2時過ぎにテレビの前で号泣しました。
あのときの熱いハートでプロレスを観る日が、再びやってくるのでしょうか。
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今日の映画:レスラー ミッキー・ローク主演
ただひたすらに、リアルです。
今日の動画:http://www.youtube.com/watch?v=8E0e9RgVNvI&feature=related
“Jのテーマ”を聞くと、いまでも胸が熱くなります。
