※なんかタイトルがしっくり来ないので変えてみた。
偽善だと思うなら関わらなければそれでいいんじゃないか。少なくとも何かのために自ら汗を流そうと決めた人たちを、十把一絡げに否定してみせるのが善だなんて俺は思わないけどな。
乙武氏は「この番組にはどうしても『偽善的だ』という評価がついて回るのですが、まさしくこの24時間マラソンこそ、そうした声を凝縮したような企画だと思うのです」といい、チャリティマラソンに言及。
この番組が本当に『障害者のために』という思いを抱いてくれているのであれば、私はこの企画を以下のものに差し替えてほしいのです」とし、提案したのが「24時間 車椅子チャレンジ」だった。
「そう、汗だくになりながら、足がつりそうになりながら、意味もなく炎天下を走ったりなどしなくていいので、ただ24時間、車椅子に乗って生活してみてほしいのです」といい、具体的な1日のスケジュールを記載。「少なくとも『24時間マラソン』に比べれば、障害者のリアルを伝え、障害者の生活に変化をもたらすきっかけとなる企画になるように思います。みなさんはどのようにお考えでしょうか」と投げかけていた。
うん、24時間車椅子チャレンジはとてもいいアイデアだと思う。障害を持つ人たちと同じ目線に立てる機会は日常的に少ないので、それを24時間体験する様子を画面に映し出すとなれば心底リアルを感じられるだろう。それはそれで本当に実現して欲しい企画だ。
ただ、「意味もなく炎天下を走ったりなどしなくていいので」という言葉はどうにも引っかかる。別にこの番組で24時間マラソンを走る人は、必ずしも障碍者のためだけに走っているわけでは無いんじゃないのか。何かしら自分なりの理由が有って、自分自身へのチャレンジのために走るのを決めたんじゃないのかな。24時間で百キロ前後を走り抜くのは本当に命がけで、確かに炎天下を走るのなんて無謀に思える。しかし、世の中で人が「挑戦」のためにやっている無謀なことなんて、他にいくらでもあるだろう?それらはみな自分への挑戦としてやってるのであって、それをやってダメな理由なんて何も無いよな?少なくとも俺は、「障碍者のため」というだけの理由で意味も無く炎天下を走る人なんて居ないと思う。何か月もかけて準備しながら24時間を走り抜いてやろうと思う人は、他人には解らないような、何か心に秘めたものがきっと有るんじゃないかな。
たとえそれが、直接には障碍者のためになって無かろうと、それを「意味もなく」などと簡単に切り捨ててしまっては、人の立場の多様さを認めない自分本位な主張として、むしろ障碍者への理解を遠ざける結果になりかねないという気がするし、何より実際走っている人に対して失礼だ。
意味もなく走ることを偽善とみなすことによって、断罪するのが善だと感じているのかも知れないが、結局それは「意味」という言葉に自身の境遇をはめ込んで見ただけの「独善」ではないのか。乙武さんも、そんな独善をちらつかせるぐらいなら黙って関わらない方が良かった。というか、24時間車椅子チャレンジの提案だけで済ませておけばベストだったんじゃないかな。ちょっと残念に思う。