一応クソ新聞なりに平均点の論評を掲げたつもりかも知れないが、安定の産経はいつもどおり、重要な論点を欠いているな。

 

 

12日の産経社説はこの辞任劇において森喜朗の女性蔑視を批判して見せたが、実際あらゆる方面から寄せられた批判のターゲットは「失言主」としての森喜朗ではない。

 

一連の動きがこれほど深く問題視されたのは、表向き謝罪すると言いながら深く染み付いた伝統的男尊女卑感覚をポロポロとこぼしてしまう最高実力者を、表向き「不適切」などと批判しつつも誰一人担ぎ上げることを辞めないという、『建前 over 本音』の二乗なる異様な光景が人々の目を釘付けにしてしまったからに他ならない。

 

それゆえ「森喜朗のマナー違反」だけで話を終わらせたら、この騒動は何の意味も持たなくなってしまう。今後日本が如何にして「現実に」女性差別を解消して行くべきかについての明確なビジョンを語る必要が有るだろう。

 

残念ながら産経の社説にはそれが無い。いつも通り「もっともらしさ」を醸し出そうとして、

 

森氏の辞任を無駄に終わらせてはならない。会長の交代を心機一転の奇貨とするには、スポーツ界を代表する川淵氏は適任といえるだろう。Jリーグを創設し、日本バスケットボール協会の内紛を収めた剛腕に期待は大きい。

 

などと記してはいるが、この騒動はそれだけでゴミ箱に収まるほど小さなものではない。五輪開催の可否はあくまで一過性の問題に過ぎないが、女性差別の解消は国家の未来に関わる永続的ファクターだ。森喜朗の最期最後の大仕事が将来どれだけの価値を生むかがその論点に示されるべきであって、こんな付け焼刃のコメントで語られたらそれこそ人生最期最後に最もいい仕事をしたはずの森喜朗が可哀そうというものだ。

 

まあ、それでも阿比留が記すこの醜悪なコラムよりはまだましだがな。

 

 

「余りのくだらなさに、日本人というのは立派な国民だという信念に揺らぎが生じてきました」

 先日、ある東大教授からこんなメッセージが届いた。東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長の女性に関する発言をめぐる日本社会、特にマスコミや国会の狂騒についてである。森氏が謝罪したにもかかわらず、際限なくたたく姿はまるで集団リンチかいじめのようで、教授に共感した。

 

日本社会の根底には女性差別に限らず数多の差別感情が息づいている。それら差別はすべからく多様性という価値観の軽視・否定によってもたらされるものだが、厄介なことにその傾向は日本の習慣や伝統文化そのものに埋め込まれており、ゆえに伝統的価値観の踏襲を主張する者は必然的に多様性を認めない方向を向く。

 

この騒動で「日本人というのは立派な国民だという信念に揺らぎが生じた」などとする輩が何処の大学の教授であろうと、自らあからさまに多様性を軽視・否定する思想を表明して憚らない人物であることは疑いようもない。

 

もとより「立派な国民だという信念」といった見事なまでに「一様」なご都合を披露する時点で、それが揺らごうが揺らぐまいが貴方の凝り固まったアタマに変化は無いから安心しろとなだめて差し上げる必要性を感じるほどだ。

 

そこまで酷い極端な例はさっさと棄却するにしても、問題の本質を見ずに「森たたき」といううわべの光景のみに反応する者が少なくないのは見過ごせない。

 

「余りにくだらない」

「謝罪したにもかかわらず」

「まるで集団リンチ」

 

このような愚にもつかない意見表明を軽々しく行う者はみな森喜朗の感覚と同じで、性根は男尊女卑のまま表向きは本音を隠し「口に出さなければ良いのだろう?」と高をくくって何食わぬ顔の、最も一般的な日本男性の象徴である。

 

実は彼らこそが、日本での女性差別解消の動きを停滞させているメインストリームなのだ。

 

彼らは歴史的に、この問題の本質に気付かぬほどに「どん臭い」か、若しくは気付きながらあえて無視するほどに「女性蔑視」かのどちらかだったのだが、その「どん臭い」方に属していたうちの何割かは、今回の騒動で世界の反応を目の当たりにして、この国のヤバさを薄々とは言え感じ取ったはずだ。このままではイカンという感覚に少なからず襲われたことだろう。従来の薄暗い空間に、まばゆく光を放つ一石を投じた。これぞまさに森喜朗最期最後の手柄と言えるものだ。

 

だが阿比留は、逆にこの国から男尊女卑という伝統文化が無くなることを心底憂えている。彼のような自称保守・ネトウヨがジェンダーに関して何を「保守」しようとしているかと言えば、まぎれもなく既得権だ。男は女より上位であるという価値観こそが彼らにとっての既得権であり、奪われるのが死ぬほど辛いと感じ、守り抜きたいと願っている。

 

だから、わざわざ何処ぞの男尊女卑の大学教授の話など持ち出して「自民党重鎮の擁護」にワケの判らない箔付けをしようと頑張るのだ。見てるこっちが恥ずかしくなることを堂々とやってのけるところは、相変わらず流石としか言いようがない。

 

そんな輩に「論説委員」などという肩書を与えている限り、まともなビジョンなど語れるはずもないだろう?

 

産経は今一度この国の未来をしっかりと見据え、民主主義を叫びつつ実は民主主義を後退させようとする民族主義者が内部に巣くうことの是非を自らに問うて、いよいよクソ新聞脱却を図ってはどうか。