幌筵提督のクトゥルフ語り -2ページ目

幌筵提督のクトゥルフ語り

クトゥルフTRPGリプレイ改編小説置き場。



「…先輩?」
「ん…?…うおっ!?」
なつこが目を開けると、目の前に敦盛の顔があった。
「なんだ敦盛か…驚かすなよ…」
「いや、先輩がいくら言っても起きないのが悪いんスよ。署につきましたから、さっさと行きましょ」
どうやら彼女は寝ていた様だった。
しかし、どの辺りから夢だったのかは分からなかった。
「…そうだな」
彼女は警察車両から降りて、大きく伸びをした。
肩の骨が小気味の良い音を立てる。
「しっかしあれだな。事件に巻き込まれたってのに、あんまり実感湧かないもんだな」
「あれ?先輩は今までこんな事件を担当してたんじゃないんですか?」
署内のえらく白い床をカツカツと踏み鳴らしながら、二人は鑑識課に向かっていた。
「むかーしはな。でも最近じゃひったくりや食い逃げしか相手にさせてもらえないんだよ」
眉間にシワを寄せて不機嫌そうに言う。
「頑固な親っさんのせいでな」
「さいですかー」
そんななつこの様子を気にもとめずに、敦盛は隣をなに食わぬ顔で歩く。
「…俺も昔はね…」
「ん?何か言ったか敦盛?」
「いや、何でもないっス。それよりほら、鑑識着きましたよ」
鑑識課の前では、古畑と中年の男が話していた。
「また会えて嬉しいよ、古畑」
「それはこちらのセリフですよ、榊原君」
「警察署内じゃ、かなりの有名人らしいね」
「お陰様ですよ」
そう言って笑い合う二人は顔見知り以上の関係に見えた。
「古畑警部」
なつこが声をかける。
「あぁ、高井さんに丹下さん」
「そちらの方は?」
敦盛が古畑に問いかける。
「こちらは私の友人の榊原君です。帝門大学で医学部の教授をしているんです」
「以後お見知りおきを」
榊原が手を差し出す。
二人もそれに応じた。
「あれ?そういや帝門って…」
なつこが敦盛の方を見る。
「ん?…あぁ、俺の母校っスよ。俺は大学までは行きませんでしたけど」
「帝門って進学校だよな?お前、見かけによらずすごかったんだな」
「…そんなことないっスよ」
感心した様に敦盛を見るなつこ。
そんな視線から逃れる様に、酷く言えば鬱陶しそうに顔を逸らす敦盛。
「…お前」
なつこも、そんな彼の様子に何か察するところがあったのか、それ以上見ることはしなかった。
「あっれー?敦盛じゃない?」
「ん?」
少し高めの声が廊下に響いた。
「やっぱり敦盛じゃん!」
ドン、という鈍い音と共に、白い何かが敦盛にぶつかった。
「っ痛!」
「やっほー敦盛。久しぶり!」
そのやけに明るい声を、敦盛は覚えていた。
「お前、友紀か?」
「正解( •̀∀•́ )b」
「…おい敦盛、お前の友達か?」
なつこがわけがわからないというふうに聞く。
「あ、そうっス。同じ高校だったの加村友紀っス」
絡んでくる友紀を引き剥がしながら敦盛が言う。
友紀はそれでも敦盛に絡んでいく。
「敦盛ぃ~お前も隅に置けないな~」
「あン?どういうことだよ」
ニヤニヤしながら友紀がなつこの方を見る。
「こんな彼女さんがいるなんて聞いてねぇぞ?」
「ばっ…!お前なぁ、先輩はただの先輩だっての!」
「そうかー?…ども、加村友紀っす。帝門大学の医学部に通ってますっす」
友紀がなつこに向かって頭を下げる。
「あ、あぁ。高井なつこだ。よろしく」
なつこもつられて頭を下げた。
視界の中ではまだ敦盛が友紀を引き剥がそうとしている。
「お前、不思議な友達がいるんだなぁ」
「不思議で済めばいいんですけどね、っと」
ようやく引き剥がすのに成功して、敦盛はホッと息を吐いた。
いくら男でも、見た目が殆ど女の様な友紀と密着するのは精神的に疲れるらしかった。
「警部」
一人の鑑識員が古畑に声をかけたのは、そんな時だった。
「はい?何ですか?」
「これが、被害者に付着していました」
「…動物の毛ですか?」
古畑が小さな袋を受け取り、照明に透かす。
眉間に皺を寄せてじっくりと見つめ、やがて口を開いた。
「高井さん達もどうぞ」
どうやら彼にはわからないことらしかった。
彼にわからないことがなつこ達に分かるとは思わなかったが、二人は同じようにそれを光にかざした。
「それは確かに獣の毛なんですが」
鑑識員が言った。
「この世界には存在しない生物の毛なんです」


怪奇というものは人間の意識が創り出した無意識の、一種の『歪み』のような物だというのが彼━━御影勇闘の持論だった。
親の都合で日本からアメリカに渡り、妹と離別した彼は、いわゆる天才だった。
化物といってもいいかもしれない。
ハーバード大学を史上最短最年少で卒業した才媛でありながら、米国陸軍特殊部隊に所属。
あの『極東侵略』時には旅団長として一旅団を率いた。
12歳時の大学生時代に取得した特許は数え切れず、およそ20年分の科学の発展に貢献したとされ、その類希なる身体技能は陸軍特殊部隊入隊即日で隊長に任命されるほどの。
それほどの化物。
怪物。
天才をふた周りほど通り越して最早天災だった。

とある事情から日本に戻って来た彼は、自身の住むアパートでパソコンを操作していた。
総資産額は億を軽く超えているが、彼の住むこのアパートはそれに見合うようなものではなく、むしろ苦学生ですら遠慮するようなものだった。
畳にはシミができ、壁は隣の住人の息遣いが聞こえる位に薄く、人によっては息苦しさを感じる程に狭い。
しかし彼はここが気に入っていた。
そこらの成金の様に、金をかけて己を着飾るのは彼の趣味に合わなかったし、こういった雰囲気が彼に合っているのだ。
彼は一息つくと、シャワーを浴びるために立ち上がった。
スレンダーながらも筋肉質な肢体には、まさに歴戦の雄に相応しい風格が漂っていた。
風呂場に入り、バルブを回す。
暑さで滲んだ汗を、冷たい水がさらう。
長めの髪に指を通し、中の熱気を飛ばす。
一通り水を浴びると、彼はバルブを閉めた。
タオルで丁寧に身体を拭く。
その時、丁度彼の携帯電話が鳴った。
「はい。こちら『傭兵屋』」
『傭兵屋』
それが、彼が名乗っている職業だった。
その神懸かり的な身体能力を生かし、表では扱えないような要人の警護などを主としている。
『私だ…』
「ああ、村下さん。何か御用ですか?」
顧客の名前は声を聞けば分かる。
それでなくとも小説家の村下冬樹は、しばしば彼に警護を頼んでいる。
自身の、ではなく、客人のために。
どうやら彼にはそういった種類の、表に出せない付き合いがあるようだった。
『はやく…はやく助けにきてくれ』
「どうかしましたか?」
『なんだっていい!早く来てくれ!』
「どちらに向かえば?」
村下の口調は、何かに怯え、焦燥感に満ちたものだったが、こんな時だからこそ、彼は冷静に対応していた。
依頼者と感情を同期させたのでは意味がない。
ゆっくりと、その電話越しに伝わる情報を手に入れていく。
音の反響から建物の中か外かを判別して。
受話器にかかる気圧からその場の高さを推察して。
自分の声の伸びから距離を判断する。
それは彼にとっていつもしていることで。
何一つ不思議に思うような、特別なことをしているつもりはない。
彼が当たり前にできることを、当たり前にしているだけのことなのだ。
それがどれ程のことなのか、自覚しないままに。
『D地区の空矢橋の下だ!早く…早くしないとヤツらが!』
「わかりました。直ぐに向かいます。落ち着いて、その場で待っていて下さい」
そう言った時には既に、彼は自分のバイクに跨っていた。
改造したエンジンが低く唸る。
頭の中で地図を描き、経路を確認する。
後は突き進むだけだった。
夕闇が浸食していく街の中に、バイクの音が溶けていった。

彼がその場に着いた時には、辺りは既に暗くなっていた。
空矢橋は、帝門と独立自治地区グンマーを繋ぐ唯一の道だ。
日本の中にありながら独立した国としての働きをするグンマーは、暴力団や国籍を持たない外国人などの巣窟と化していた。
村下はきっちり空矢橋の下にいた。
ガタガタと体と歯を震えさせながら、何かを大事そうに抱えている。
「村下さん」
声をかけると、彼は体を大きく震わせた。
「…『傭兵屋』か…」
彼の姿を見ると心したのか、村下は一瞬緊張が緩んだ。
ほんの一瞬だけ。
しかし、言いかえれば、一瞬でも隙を与えてしまった。
スッ、と。
音もなく、自然に、まるで初めからそうであったかのように。
村下の首が落ちた。
「!?」
少し遅れて、首から血が噴水のように噴き出した。
鼻から入ってきた鉄の臭いが、脳を蝕む。
それでも、彼は理性を失わず、辺りを見回した。
しかし、彼は逃げるべきだった。
彼が見つけたのは、一匹の獣。
狼とハイエナをないまぜにしたような獣。
毛の薄い醜い皮と、鼻をつく腐臭が吐き気を誘う。
その『獣』は、彼を見ていなかった。
彼の先。
村下が大事に抱えていた物を見ていた。
それは、一冊の本だった。
本と呼ぶのも憚られる、紙を束ねただけの物。
装丁もおざなりで、表紙もない。
しかしそれは、傍から見ている彼にすら、禍々しい妖気を放っていた。
全身から冷たい汗が噴き出す。
『獣』は、機を図っている様に見えた。
未知に出会った時、必要なのは図ること。
自分と未知との差異を見違えないこと。
それを『獣』は知っているようだった。
少しでも気を抜けば、この『獣』は容赦なく彼の首筋を掻き切るだろう。
目の前にその証明がある。
なら、機を図る相手に気を抜かず、寧ろ奇を衒う。
初めに動いたのは彼だった。
地面を蹴って距離を詰める。
速さに自信はない。
『獣』も動いた。
牙を剥いて首筋に噛み付こうとする『獣』。
御影は体を大きく捻ってそれを躱す。
そして彼らが交錯した瞬間。
『獣』の鮮血が闇に舞った。
くぐもった声が漏れる。
御影は硝煙の匂いのする拳銃を握っていた。
M&W社謹製《MoonWalker LIGHTNING》
彼が愛用している拳銃だ。
速射・連射性能を重視し、ロングバレルにサイレンサーを内蔵することで、命中率と遮音性にも優れている。
彼は速さに自信はない。
だから飛び道具を使った。
『獣』は肉弾戦を想定していたようだが、それはあまりにも早計だった。
「…なんとか、なったか?」
まだ『獣』は死んではいないようだったが、それでも彼は自身の勝利を確信していた。
いや。
過信していた。
気を抜いた一瞬。
おぞましい程の寒気が彼を現実に引き戻した。
殆ど本能的に、彼は大きく仰け反った。
同時に、彼の首に紅い一本の線が入った。
後一瞬でも遅れていたら、彼は首無に仲間入りだっただろう。
『あら?外れちゃったかしら?』
ノイズの入ったような女の声。
目の前にいたのはあの『獣』ではなかった。
扇のように伸びる美しい黒の髪。
陶器のように白い肌。
その肌を隠すものは何もなく、月の光を浴びて『彼女』の裸体が惜しげもなく晒されていた。
しかし『彼女』を見る彼の頭に、下衆な思いは一欠片もわかなかった。
それどころか、彼は『彼女』をひどく恐れていた。
本能が彼に警鐘を鳴らす。
今目の前にいるのはか弱い女性ではない。
彼を喰らう【捕食者】だった。
『ねぇ、そこの本、取っていただけますの?』
『彼女』はその細長い人差し指で、村下の傍の本を指さした。
「………」
彼は答えない。
答えられない。
それほど、今の彼に余裕はなかった。
嵐の中に取り残された小舟のように、今の彼は座して死を待つだけの存在だった。
『取れ』
その一言に、強烈な威圧感を感じる。
「………嫌だと言ったら?」
『殺して私が取りに行きますわ』
一切の迷いなく『彼女』は言った。
「………そうか、残念だよ」
拳銃の銃口を向けて、すぐさまトリガーを引く。
『彼女』は驚いた様な顔をしたが、その鉛玉が『彼女』の躰に風穴をあけることはなかった。
風の様に、『彼女』が彼の脇を抜いた。
「!!」
『残念ですわ。取っていただけたら殺すか生かすか考えてあげてもよかったんですのに』
美しい腕が、彼の頚を締める。
「ガッ、ァ…」
『殺すなら痛くない方がいいですものね。先にオトして、後で殺しますわ』
段々と締め付けが強くなる。
彼の筋力をもってしても、解くことが出来ない。
(こんな細い腕のどこにこんな筋力が………)
頭に酸素が回らず、頭が回らなくなってくる。
そして、彼は気を失ってしまった。
『あら、案外あっさりとオチますのね』
鋼鉄をも切り裂く『彼女』の爪が、彼の喉を掻き切った。


8月16日。朝。
結局その後、その動物の毛についての進展はなく、被害者から回収した本の事を言うタイミングも逃し、なつこはそのまま署内で夜を明かした。
敦盛はさっさと家に帰って、今日ここに車で来ることになっている。
エントランスでなつこが待っていると、駐車場に一台のGT-Rが入ってきた。
「…あの趣味の悪そうなGT-Rは敦盛のだな」
案の定、そのGT-Rから敦盛が出てきた。
「あ、はよざまっス」
「おう。早かったな」
エントランスに入ってきた敦盛と挨拶を交わす。
「で、今日は何をするんスか?」
「今日こそは裕二のとこに行かんとな」
「あー、そういえばそうでしたね」
「てことで、宜しく頼むぞ」
「………え?」
敦盛がポカンとした表情を浮かべる。
「敦盛の車で行くんだろ?」
「え?そんなの聞いてないっスよ?あれ、かなり大事なクルマなんスけど?」
GT-Rを指さす敦盛。
確かに大事にされているようで、その車体にはキズも埃もない。
「まぁ諦めろって」
「あのクルマに乗せるのは彼女だけって決めてるんスよ」
「あぁ?こないだ私乗せただろ?」
「あれはあのクルマじゃなかったっス」
「だぁぁぁー、めんどくせぇなぁおい」
なつこが自分の髪をわしゃわしゃと掻き乱す。
「はぁ………乗せる用の車持ってきます………」
「おうあくしろよ」
「………はぁ」
気だるそうに敦盛が車に向かう。
それから大体30分ほどしてから、黒のベンツが入ってきた。
「………」
なつこの顔が曇る。
中から出てきたのは、やはり敦盛だった。
「先輩、クルマ持ってきま………」
「クソがぁぁぁあ!」
敦盛がなつこの方を向いた瞬間、なつこの張り手が飛んできた。
「!?」
「なんでわざわざベンツに乗ってくるんだお前は!」
「え?あ、いや、ベンツしかないんスけど………」
頬をさすりながら、何が起きたのか分からない敦盛は素直に答える。
「ベンツなんかに乗って現場なんていけるか!?無理だろ!そんなブルジョワアピール求められてないんだよ!」
「えぇー………」
理不尽を感じながらも、ベンツしか持っていないことを悔やむ敦盛だった。
その後も口論、というかなつこの自論が続き、出発出来たのは昼前だった。


同日。昼過ぎ。
なつこと敦盛は現場に到着した。
「おう、なつこか」
人の良さそうな笑みを浮かべて、後藤裕二が二人を迎えた。
「久しぶり」
なつこが後藤に向かって手を上げる。
「お前は相変わらず言葉が悪いんだな」
憎まれ口をたたきながらも、嫌な雰囲気を感じさせないのは、ひとえに彼の人柄だった。
「うるせぇよ。で?被害者は?」
「あぁ、こないだ送ったガイシャはもう鑑識に送っててな。今日は昨日の深夜に通報のあったとこの見聞だな」
後藤は現場の方をチラッと見た。
「正直なにがなんだかさっぱりだ」
なつこもそっちに目をやると、そこでは後藤の部下や鑑識数人が写真を撮ったりしていた。
血だまりの中に人間と、一匹の動物が死んでいた。
動物は狼とハイエナをないまぜにしたような造形で、脚に銃創があり、全身から血を吹き出していた。
それはまだいい方で、人間の方はもっと酷く、首から上が飛んでいた。
「………なんだこりゃ?」
「だろ?」
敦盛は車から出てこようとしない。
「誰か一部始終を見た奴は?」
「血だまりの中に血まみれで気絶してた奴が一人。だけどまだ意識が戻ってない」
「そいつは何処に?」
後藤が顎をしゃくって側にある救急車を示した。
「なんであんなもんがあるんだ………」
「それがかなりの重体でな。完治までは1ヶ月はかかるそうだ」
後藤の言葉を受けながら、なつこは救急車に乗り込む。
そこには二人の救急隊員が、一人の男に付きっきりになっていた。
「どんな感じですか?」
警察手帳をみせながら、なつこがそのうちの一人に訊ねる。
「あまり良くはないですね。傷も深いですし、何より筋肉の繊維が引き裂かれてます」
「筋肉の繊維?」
「ええ。引き裂かれたと言っても、これは急激な運動でちぎれたみたいになっています。強いて似たような症状を挙げるなら極度の筋肉痛ですね」
「筋肉痛?」
「はい。その症状がかなり酷いものであるという認識で大体大丈夫です。手足はピクリとも動かないでしょうね」
なつこは男を見た。
確かに手足には深い傷があって、所々に腫れた跡がある。
「名前は?」
「財布の中の免許証から、御影勇闘という名前だと分かりました。住所なども一致しています」
「御影…勇闘…」
何かを思い出しそうで思い出せない嫌な既視感がなつこを襲う。
あと少しというところまで記憶を辿ったその時。
ドン、という大きな衝撃と共に救急車が大きく揺れた。
「!?」
なつこが救急車から飛び出すと、そこには悲惨な光景があった。
死屍累々と警官が道に倒れ、中には血を流している者もいる。
後藤も腕に血を滲ませながら、苦痛に顔を歪めていた。
「裕二!何があった!?」
「あいつだ………あいつが急に………」
よろよろと腕を上げて指さす先には、一人の女性が立っていた。
背の高い女性だった。
腰まで伸びた黒の長いポニーテール。
白い肌はその髪の黒さと相まって更に白く見え、切れ長の大きな瞳には冷徹な光が宿っていた。
曇りのない白の半袖のTシャツの裾を結び、ジーンズの片足を根元から寸断した奇抜なファッション。
そして何より目を引くのが、その手に持つ長い長い太刀。
彼女の背丈程はあろうその大太刀は、彼女の細い腕では到底振り回せられそうになかったが、それでも彼女にはそれを可能とするような威圧感があった。
「………違う」
凛とした声が、離れているなつこにも通る。
彼女は手に持っていた紙束を無造作に放り、なつこの方を見た。
「そこにいるんですね」
ゆっくりと彼女が脚を上げて、
なつこの直ぐ横に来ていた。
「!?」
彼女が脚を上げてから、一秒と経っていない。
たった一歩で、彼女はなつことの間の距離を埋めた。
「どいてください」
軽く押されただけ。
それなのに、なつこは宙に浮いた。
「………は?」
気づくと途端に重力を感じ、そのまま地面に叩きつけられた。
「ガッ…ッ…!」
彼女はなつこに一瞥すらくれず、まっすぐ救急車に向かっていく。
そして彼女は何を思ったか、脚を振り上げて車体を蹴った。
凄まじい音がして、車体の側面に抉れた穴を開けた。
もう無茶苦茶だった。
なつこには、これが現実のことには思えなかった。
「なにが起きてるんだよ………!」
彼女はズカズカと救急車に乗り込み、鞘から刀身を少し抜くと、そのまま鞘に納めた。
キンという高い音がして、簡易ベッドがズタズタに斬り裂かれた。
「………?」
しかし、彼女は手応えを感じていなかった。
シーツを剥ぎ、中を確認する。
そこには、誰もいなかった。
直後、彼女は自分がハメられたと悟り振り返った。
そして、御影の拳が彼女の顔を捉えた。

なつこは呆気に取られていた。
自分をあそこまで簡単に吹き飛ばした彼女を、目の前で吹き飛ばした男がいた。
しかも、その男はさっきまで意識もなく、あと1ヶ月は動けないと言われていたのに。

「ッ!?」
完全に気配も殺気も消した動き。
彼女は一気に警戒体勢に入る。
「あぁー………体が痛い………」
自分の体の調子を確かめるように、御影は腕を回す。
「頭も痛い…ボーっとする………」
彼女は大太刀━━七天七刀に手を掛ける。
走り抜きざまに首を斬るイメージを浮かべて、その通りにした。
ドン、と音がして、彼女は地面に顔を埋めていた。
「!?」
「えっと…確か依頼受けてここに来て…それから…ダメだ、そこから記憶がないな」
何が起きたのかわからないまま、彼女はもう一度大太刀を取る。
「《七閃》!」
鞘に納めた刀身を、少しだけ抜いて、また納める。
するとコンクリートに七本の亀裂が走り、御影に向かっていく。
御影は焦る訳でもなく横に大きく跳んだ。
縦の七本の亀裂は御影の脇を通り過ぎ、御影に傷をつけることは出来なかった。
「よけた!?」
「戦場の弾幕ほどよけづらいものじゃない」
さて、と御影は続けて、
「今度はこっちから行かせてもらうぞ」
御影が地面を蹴った。
空気を裂くような音と共に、そのスピードを乗せた拳が飛ぶ。
彼女ら間髪のところで大太刀を挟み、それでも後ろに弾き飛ばされる。
「…ッ!」
「当たらなかったか」
手を閉じて開く動作をして、御影は彼女を見た。
「次は当てる」
彼女はよろよろと起き上がり、口から血を吐いた。
「尋常じゃないですね…『聖人』の私をここまで簡単に、一方的にできるなんて」
「鍛えてるからな」
その言葉を、彼女は笑った。
「鍛えただどうのの問題ではありませんよ。私は、この世界で十二人しかいない『聖人』なんです。イエス=キリストと似た身体的特徴を持ち、生まれながらに神の力の一部を使役できる、そんな人間なんですよ、私は。肉体的にも、魔術的にも、生身の人間とは比べ物にならないほど精通している。そんな私をこんなに痛めつけられる人間なんて、片手に足りる位しかいないんです」
「………」
「わかりますか?貴方は…」
そこで、彼女が周りを見渡した。
不審に思った御影もそれに倣う。
すると、今まで気づかなかったのが嘘のような喧騒が耳を劈いた。
野次馬が彼らの周りで騒ぎ立てる。
彼らの間合いに入らなかったのは、なつこと後藤が止めているからだろう。
「少々、目立ちすぎましたね。今日のところは一旦引きましょう」
彼女はそう言うと、電柱のてっぺんまで跳ねた。
「おい!まだなにも…」
「私は神裂火織。もう会うことがないように願っておきます」
それだけを言い残して、神裂の影は夕闇に溶けていった。
気づけば空は赤く染まって、太陽は沈みかけている。