検食な朝ごはん!
ウインナーローセージと春雨とちくわのナムル…
では私には足りないので、付け加え!
鶏胸肉と生野菜ときんぴらとナスの挽肉炒め…
よう食べました!
そして、前に購入していた「ドライロンガン」を久しぶりに食べました。
このドライロンガン、漢方でも用いられ、とても優れた効能が期待されます
腎炎、肝炎を治したり、貧血の人、睡眠障害で悩む人をも改善させたり…
すごいです。
業務スーパーで100g1袋で88円!安い!
こんな記事見つけました!
祝日なので夫は家にいます。息子は休日勤務。頑張っています。
久々に夫に「ドライブでも行きましょう」と誘いました。最初とても渋っていましたが、行く気になってくれたようです。
気晴らし、気休めに出かけてきます。
「諸国の民のうちに、さすらい人となる」ということは、ノドの地に住んだカインと深い関係があります。聖書の「ノドの地」とは、神の恵みと慈愛を拒絶した人が住む放浪の地であり、さ迷うことを運命づけられた地なのです。
創世記4章12節の呪われたカインは「さまよい歩くさすらい人」であり、放逐された、よるべなきさすらい人なのです。その人が住むところが「ノドの地」です。「エデン」と同様に、特定の所に存在する地ではなく、神から遠く離れた地という意味です。
「さまよい歩くさすらい人」という表現はここの他には創世記4章12節と14節にしかありません。北イスラエルの民の運命はカインと同じ運命にあります。ということは、カインが主によって守りのしるしが与えられたように、エフライムの民も同様の守りが与えられていると考えることができ、終わりの日には、彼らのうち「残りの者」たちが神に立ち返ってくると理解することができます。
この手紙はクリスチャンとなったユダヤ人に宛てられて書かれています。
ここでいう「幕の内側」というのは、モーセに示された幕屋の中の最も奥にある「至聖所」のことです。
モーセの時代では聖所と至聖所との間には幕があって、その仕切りの幕を通って至聖所に自由に入ることが許されたのは、モーセだけでした。他に入ることが許されたのは大祭司です。しかも年に一度、大贖罪日と言われる日だけでした。神はその至聖所においてそこに入れた者と親しく語られました。イスラエルの民の罪が全国民規模で赦されるためには、動物の血を至聖所に置かれてある契約の箱の上に注がなければなりませんでした。神に近づいて、神の赦しを与えられ、神の語ることばを聞くには、ごく限られた者しか至聖所には入ることができなかったのです。
ところが、ダビデの時代になり、ダビデ王が神を公式に礼拝したときには、この至聖所にあった契約の箱の前で礼拝したのです。まさに、中核がむきだしにされたような形です。幕屋の中で最も重要な部分がだれの目にもふれることができるようになりました。これがダビデの幕屋といわれるものです。
このダビデの幕屋は、のちにイエス・キリストによってもたらされる救い、信じる誰もが大祭司キリストによって、自由に至聖所に入ることができるようになる予兆だったのです。
本日の箇所の要点は、イスラエルの歴史の中で大切にされてきた幕屋礼拝、神殿礼拝の中核である至聖所にキリストにあって、いつも自由に入ることができるということなのです。そこでは、主の臨在が満ちていて、その主の臨在による喜びの祝福に満たされるというリアリティが絶えずあることなのです。そのリアリティにあずかることができる保障こそ、まさに「希望」なのです。この希望は決して理想郷のものではなく、現実に経験できる神の約束なのです。
「私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役割を果たす」とは、昔の大祭司のように年に一度ではなく、毎日四六時中、幕の内側に入ることができて、神との親しい交わりを豊かに経験することを通して、約束されている望みを捕らえることができるということなのです。なんという新約の恵みでしょう!主イエスの十字架ゆえです。そして、そのことが、いつも、力強い励ましとなり、希望に満ち溢れ生きる…つまり、成熟を目指して歩む人生と言えるのではないでしょうか。





