自分を守る…なんか自己中に思われがちなこの国です。
「世のため人のため」というと美しい…この国の傾向であると私は思います。
「これをすれば大丈夫」「これをすれば人に迷惑かけない」「持病のある人は是非!」
この謳い文句が多くの人の善意に働いて(悪い言い方をするなら、利用して)、「自由」という名の「不自由」「義務」で蔓延しているようにわたしには思えます。
みんながしているから…という集団の意識。
それを助長するようなマスコミを通しての有識者と言われる方のおすすめ…
まだ、実験は終わっていません。まだ多くのことが証明されていません。
なのに信じる…わたしには理解できないことなんです。
「軽く済む」「人に迷惑かけない」
これは本当なのですか?
もしこれが実際、逆だとしたらどうなんですか?
「重くなる」「人に影響を及ぼす」だとしたら?
多くの人は信じています。
多くの人は善意と思いやり、愛からの行動をしています。
わたしは泣いています。
周りがどうあろうと、わたしは意思を変えません。悪者扱いされようと私は意思を変えません。
なぜなら、「主の宮」である私の身体は最善を尽くして管理させていただきたいから。
わたしは神様のくださった生命力と免疫力、そして自然治癒力に大いに感謝をささげます。
そして、その神様から与えられた力を頼ります。
すみません。とても感傷的になっています。
神様!憐んでください!
一度死んだものが、こうして神様にあって助けられ生かされる身となった…今後は、この神様から預かった身体を労り、大切に管理したい…ただそれだけ。
自分が健康で幸せであることが、周囲の健康と幸せにつながることを確信しています。
人間の作った確証のないものには頼りたくない…
信仰があれば、祈っていれば絶対大丈夫!
これはある意味傲慢。
強く強く思わされること。
静まることの大切さ。
待つことの大切さ。
焦りは禁物。
時が必ずある!時が必ず来る!
時に逆らうことはできない…
イザヤ書55章では、神が終わりの日に備えておられる祝福を代価を払わずに求めよと呼びかけています。
この章に出て来る「水」「穀物」「ぶどう酒」「乳」「パン」「脂肪」は、文字通りのものではなく、霊的なものと解するべきです。これらは神ご自身から派生する霊的祝福です。それは神から派生する「良いもの」であり、人の魂を喜ばせる祝福です。
昨日の新約聖書の箇所とリンクしますが、「水」は「真理」を指しており、「神の御言葉」とも言えます。生きるために必要なもの…肉にとっては水、霊は神様の御言葉なしでは生きられません。
乾いています。神様、生ける水なるあなたの御言葉をください!
無条件で、無償で注がれる生ける水、神様から与えられる糧を求めます!乾いた私をこの日も潤してください!
ヨハネは他の福音書(共観福音書)と違った観点で、強調する点がある書であり、それは、「命を得る」ためのものです。
安息日の癒しの記事においても、「安息日」そのものよりも、神の子イエスの権威を強調しています。
イエスは「永遠の命」を与える権威をもお持ちです。
父なる神のしておられることを子もしていると主イエスは言われます。
霊的に死んだものであっても神の子の声を聞くなら生きる!
肉体が死んで、墓に葬られたものであっても、将来はよみがえりその行いによって裁かれる。
イエスを信じるものは大患難の前に死者も含め皆守られて挙げられ、さばかれることはない。
そうでないものは、将来、第二の復活の後さばかれる…
明確に聖書に記されていることです。
今日の言葉は本当に大切です。
これをよく噛み砕きながらいただきましょう。吟味しましょう。
イエスの歩まれた道は私たちの将来の先駆けです。初穂となられて死んだけれどもよみがえられた。そして天に挙げられた…
信じるものたちの上にはそのことが必ず起こる…そう信じて今日も元気に過ごしたい!そう願う朝です。
主よ、どうか、どうか、今の私の心、あなたが1番ご存知です。
どうか憐んでください!
あなたの御心がなりますように!
主に栄光がありますように!