本日もブログ『Ω…建築萬紀行…Ω』のアーカイブをお届けします。

 

 

 

 

 

 2008/1/15 

 

№761_マスクフェイス

 

 

この三連休はすっかり風邪を引いてしまいました。
今もキーボードを打つ位置を眼で追うだけでクラクラします。
というか、目でキーボードを追っかけていては駄目なんですが・・・(~_~)

従って、今日は真面目にゆっくりと仕事をして、早く帰ろうともくろんでいます。

ふー、ちょっと立ちくらみが~(-_-;)


ところで、今回の風邪はのど痛から始まって、節々の痛みというかダルさに発展し、眠気がずーっと続きます。のどの痛みはマスクをすることによって多少和らぐので、マスクを欠かさないようにしていますが、息苦しいのが難点。私は人一倍酸素欠乏症になりやすいのか、マスクをしているだけで呼吸困難に陥ります。しかし今回の風邪はマスクをしているほうがマシ。よって、呼吸困難になることよりものどの痛みを抑えるためにマスクを欠かせません。
はやく誰かに感染させて立ち直りたい。。。でもそのためにはマスクをはずしたほうがましか?しかしそれだとのどが痛い。のどの痛みを抑えるためにマスクをすると呼吸困難に陥る。すると、マスクをはずしたほうがマシ。しかし、そのために誰かに風邪をうつせなくなる。マスクをする。のどの痛みはマシ。だけど酸素が足りなくなる。・・・・

そういう思考を繰り返すうちに熱が上がってきた。(-_-;)

 

 

 

 

 

 2008/1/15 

 

№762_町名変更

 

 

とってもローカルな話題で恐縮ですが、私が小学校6年から社会人になるまで住んでいた町名が変わるというニュースが京都新聞に載っていた。


──────────《京都新聞のリンク》─────────

「京都市南区吉祥院石原長田町」の「長田町」をなんと読むと思いますか?
住んでいた当時は、当然ながら土地の住民の読み方にならって『おさだちょう』と読んでいました。ところが、国交省が作った歩道橋の看板に『Nagata』と明示してあるらしい。
市区政推進課によると、「おさだ」と「ながた」のどちらが正しい読み方かは不明だという。確かにそれは不明かもしれないが、長田町の住人のほとんどが「おさだ」と読んでいたはずの町名を、国交省のチョンボかもしれない歩道橋の名前に統一するというのは素直に賛同できない。
もはや、その町民でない私がとやかく言っても決まったことだろうから覆せないだろうが、なんともお役所仕事とは住民感情を無視したことを平気でする。
もっと言うなら、どちらの読み方も正しいかもしれないではないか!それを不便だからとか、苦情があったからだとか、自分たちの責任逃れのためだけで安易に町名を変更すべきではないと思う。

しかし、こんな小さなことで怒りを覚える自分は了見が狭いのかなあ??

 

 

 

 

 

 2008/1/17 

 

№763_黙祷の朝に

 

 

ここ数日、風邪を引いてしまい、朝が辛い。
と言うものの6時半には起きる。自然に目が覚める。まだ若いのに・・・
以前だったら4時半起床が当たり前だったのに、ここ数ヶ月はせいぜい5時半起床が精一杯だ。
テレビをつけると、民放はいつもの様に芸能ニュースや3面記事で賑わっているが、NHKだけはあの日を忘れない人たちの黙祷をする場面が映し出されていた。恥ずかしながら今日があの日だったことを、その画面が映し出されるまで寝ぼけていて忘れていた。私も5秒くらい目を閉じた。いや眠いから閉じたのではなく、あの日を思い出そうとして閉じた。もちろん冥福を祈っての気持ちも忘れない。

昨年も同じ日にあの日のことを書いていた。一昨年もきっと書いたに違いない。年々記憶が薄れながらもあの日のことを思い出すと、様々な情景が浮かんでは消える。仕事場の書棚が倒れていたり、仕事場の皆がポリタンクを奈良方面に買出しに行ったり、自分が担当していたマンションの現場の地盤ががけ崩れで1/3くらいなくなっていたりと、大変だったことを思い出す。

おりしも、その敷地が倒壊したマンションの確認申請を西宮市役所に提出した直後だったので、まずは西宮市まで行ってみたが、まるで映画のセットのような町の崩落ぶりに私はめまいがしたのを思い出す。めまいというのは平衡感覚が被災地に行くと失われるのだ。まっすぐに建っている建物がどれか分からなくなる。少なくとも自分がまっすぐ立っているはずだとしても建物がまっすぐ建っているか判定できない。
しかし建っている建物はまだマシだってことがすぐに分かる。街の中を歩き出すと、数件に1件は倒壊もしくは半壊している。1階が崩れてその上にすっぽりと2階が乗っかっている建物は、まるで映画のセットのような印象だったし、商店街のアーケードが焼け焦げた跡は戦災で焼けた跡ってこんな感じかなって思ったりもした。
そうして歩き続けた末に到着した西宮市役所は封印され、建物の内部に入れない有様だった。確認申請図書は大丈夫か確認するすべを失った。
人は窮地に陥ると強くなるというが、いくら強くなっても役所に入れなければ始まらない。とにかく被災地をぐるぐる巡りながら考えていたあの頃を思い出した。

今はあの日のことを忘れないで、建築に携わるものとして何ができるか、今日は考えてみたいと思います。


★次回、敷地が崩落したマンションの確認申請がその後どうなったかお伝えします。
事実は小説より奇なりですよ~。

 

 

 

 

 

 

 2008/1/18 

 

№764_マンションの確認申請

 

 

昨日の続きです。

西宮市役所にマンションの確認申請図書を提出して直後の阪神淡路大震災は、阪神地域に未曾有の災害をもたらしました。
私自身にとってもマンションの設計は初めてだったので、その初仕事でこのような災害に遭い、ショックでしたが、仕事である以上、なんとかして前に進めないといけません。
前日のブログに書いたように西宮市役所の機能は麻痺しています。確認申請の窓口となる建築審査課は、震災と同時に災害復興課に切り替わった上、近隣のプレファブ小屋に移籍されて、建築審査課の機能は実質的になくなりました。災害復興課となった建築審査課の職員のもとには西宮市被災者住民の長蛇の列ができ、私など無関係な人間の入る隙間はなく、それでも建築確認申請業務がどうなっているかだけを尋ねるために、申し訳なかったが長蛇の列の先頭から割り込んで尋ねた。当然ながら最初の頃は役所の人も確認申請どころではないと言う空気だったが、震災から2、3週間くらい経ったあたりから長蛇は短くなってきた。

「ChiChiさん、こちらとしても役所に入りたくても入れないんだ。特に建築審査課のあった最上階は、いつ崩落してもおかしくない状況で、今は確認申請図書がどうなったかも確認できない状態なんだ。」

その日は引き下がり、また1週間くらいしてプレファブ小屋に行くと、

「ChiChiさん、なんとか確認申請図書など大切な書類だけは取りに行った。ChiChiさんの出した確認図書はこのようにバラけてしまったが、なんとか修復したよ。」

実際、つぎはぎだらけの確認申請図書を見せてもらい、審査ができるのか担当者に尋ねてみた。

「ChiChiさんの出された申請はマンションなので、災害復興の足がかりになる建物だ。確認さえ通れば最初にできるマンションかもしれない。是非、西宮市としてもChiChiさんに協力したいと考えている。」

「それは助かります。ではいつごろ審査に入れそうでしょうか?」

「ご覧のとおり、今、我々建築審査課は災害復興課になっている。よって確認申請の審査をする時間的余裕がない。そこでChiChiさんに協力してもらいたいんだが。」

「はい、なんなりと。」

「私の指定する日に災害ルックで私の机の前に座ってほしい。そうすれば長蛇の列があってもChiChiさんも被災者とみなされ住民の目を気にすることなく、しかも私の審査をする前にChiChiさんがいることによって、質疑応答し、そのまま訂正していくスタイルで行けば、その日中に決済(確認が下りること)できる。」

私はとんでもない提案にしばし膠着したが、願ってもいなかった展開にすぐ承諾した。

(続く)

 

 

 

 

 

 

 

 2008/1/21 

 

№765_マンションの確認申請(2)

 

 

 

(前回の続きです)

災害ルック(といっても単純にスーツ姿ではなく、ジャンパーにジーンズです)で、西宮市審査課の指定する日へ災害復興課を尋ねた。朝一番に担当者のデスク前に陣取ったので、さすがに役所は人気が少なかった。早速審査が始まる。

正直言って、建築審査課の審査をしている仕事風景をじっくりと見たことがなかったので、果たしてどんな感じなのか興味津々だったが、特段変わったことはなく、普通に電卓で検算したり、法令集を紐解いたりしているだけだった。ただ唯一びっくりしたのは日影図をチェックしているときだった。今はコンピュータで日影は解析できるので、昔のような倍率計算ができるチャート図のようなものは見たことがなかった。それを影で厳しいところ(法令で敷地境界線から規定されたポイントにある一定時間以上日陰になってはいけないところ)にチャート図を起きながらシビアにチェックしている姿は、とても偽装なんて見逃さないぞという執念すら感じられた。というか、当然偽装なんてしてませんから~。(~_~)

記憶は定かではないですが、お昼ご飯休憩を挟んで午後からも審査が再開されたと記憶している。当時はようやく喫茶店などの一部は再開してきたが、まだ水は不足していて、水の注文はできなかった。サンドイッチとコーヒーを飲んだと思うが、喫茶店にいる最中は被災地にいることを一瞬、忘れさせてくれた。
午後から審査再開。はっきり言ってケアレスミスが続出し、申請書は真っ赤な訂正印でいっぱいになってしまった。でなくても震災でビスが砕け散って、ばらばらになりセロハンテープでつぎはぎだらけの申請書だったのに、悲惨だった。今ならCADで出力して差し替えとかできただろうけど、当時は差し替えというのがほとんどできなかったから、間違えはそのまま履歴として残っていく。

なんとか午後3時くらいだったと思うが、担当者のチェックが終わり、建築主事(そこで一番えらい人)のもとの申請書が動いた。私は担当者と一緒になって、建築主事の元に行き、そこでも同じように質疑応答を受けながら間違いを訂正していった。幸い建築主事はあっさりと確認を通してくれたが、一言言葉をいただいた。


「西宮市のために災害復興に向けて住宅建設に尽力してくださってありがとう。君の努力をたたえたい。」


と言っていただけるかと思って固唾を呑んで待っていると、


「こんな真っ赤な確認申請書を見たのは初めてやなあ。まあ、なんとかこれで着工にこぎつけて早くマンション建ててや!頼むで、ホンマに~」


私は真っ赤な顔になって真っ赤な申請書を返していただいた。
西宮市役所の審査課の方々、当時は大変なところ、お粗末な申請書にお付き合いいただいてありがとうございました。