
このところ、スマナサーラ長老著「ブッダの実践心理学」を楽しく読んでいる。(現在、2巻284ページまで読了!)
かつて、上座部系のブッダゴーサの手になる「清浄道論」(南伝大蔵経 第62-64巻)を拾い読みし気に入っていたこともあり、現在の「上座部の仏教はいかなるものであろうか」という興味があった。前掲書は、その好奇心を大いに満たしてくれている。それは、先年、地橋氏著「ブッダの瞑想法」に期待して得られなかったものである。
しかも、長老の流れるような弁舌は、一種の快感でもある。
しかし、である。
シリーズ2巻目に入り、長老のインド哲学に対する理解に、ちょっと気になる点が目立ち始めた。長老の信者の方がいらっしゃれば、重箱の隅をつつくようで申し訳ないが、この機会にまとめておこうと思う。(多少シャンカラ寄りの立場からのコメントになります。ご容赦を。)
<ヴェーダーンタについて>
(1) サット・チット・アーナンダ(前掲書2巻211、257ページ)
長老は「サット(真理)・チット(心、自分の魂、個我)・アーナンダ(至福)」と、それぞれに訳語を当てていらっしゃるが、特に気になるのは「チット」(長老においては「チッタ」)であろうか。本来、「サット・チット・アーナンダ」は唯一絶対のブラフマンの本質を示しているもの(前田専学「ヴェーダーンタの哲学」p.115)なので、「チット」が、「自分の魂」や、ましてや「個我」を表すことは無い。「知」(中村元「シャンカラの思想」、前田前掲書)等もっと適切な訳語があるにもかかわらず、個体性を意識させる訳語を選んだ意図が不明である。また、「チット」は、当然移ろい変わる「心」でもない。移ろい変わるものは絶対ではないからである。
(2) 梵我一如(前掲書2巻211-212、261ページ以降)
唯一絶対で、対象とはなり得ない主体そのものであるブラフマン(アートマンも同じ)を(概念上であれ)捉え損なっているせいで、「梵我一如」の説明も、納得し難いものとなってしまった。
長老は、他宗を判ずるときに「一境性=対象との一体感」(及び「至福=喜」)を判断基準となさっているようである。「一体感」という限り、「対象と、その対象との一体感を感じている主体」の2者が存在することになる。しかるに、ヴェーダーンタの哲人たちにとって、「梵我一如」とは、「実にアートマン(我)はブラフマン(梵)である」という「不二」の真理(「不二(advaita)」は、「同一」という意味以外に、「第二のものは無い」という意味を含む。―中村元「シャンカラの思想」p.226)を悟る(または、理解する)ことであり、「瞑想の中で一体感を得る」ことが「不二」ではないと思うのだが、いかがであろうか。
さらに、時に長老は、ブラフマンとブラフマー神(梵天)を混同した上で「梵我一如」を解説したりする。さすがにこれには閉口した。
しかし、最も不思議に思うことがある。
長老は第二巻冒頭付近から「絶対(者)などというものはあり得ない」と繰り返し力説なさる。あまつさえ、次のように語ってもおられる――
「真我(アートマン)」「永遠の魂」といった実体論は、ゴミ概念として、仏教ではスタート地点から排除しているのです。(前掲書p.19)
「創造主」、「唯一絶対神」なども、「アートマン」と同様に「実態・絶対的な存在」として、端っから否定される「ゴミ概念」らしい。
とするならば、本来あり得ないはずの「ブラフマン」や「アートマン」との一体感(梵我一如)など存在するはずは無い。どうして存在しないもとの一体感を、後になって持ち出す必要があったのだろうか。また、よしんばもう一度取り上げたとしても、「アートマンやブラフマンなどはあり得ません。だから、梵我一如もありえません」というのが自然なのではないだろうか。「一体感を得て満足する梵我一如は低いレベルの禅定です。仏教の禅定はもっと高みに上ります」などというような文脈で語る了見は、謎である。
<ラーマクリシュナ>
長老は「空無辺処定」についての解説で、「私の誤解かもしれませんが」との断りつきで、ラーマクリシュナについて次のように語っている。
「例えば、ラーマクリシュナの言葉を読んでみますと、色界第一禅定くらいは経験がある感じはしますが、それでもまだ、「神がいる」とか、「魂がある」とか「梵天がいる」などという状態なのです。」(前掲書p.282)
「色界」というのは、「五感+意」が働いているところの「欲界」を超えた瞑想の世界。しかし、物質(色)と心が、まだ結びついている世界とのこと。
長老は、ラーマクリシュナが6ヶ月もの間、相対を超えた「ニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)」に住していたことや、ラーマクリシュナが語る神が、輪廻の中にある「天(神々)」を指しているわけでもないことを、ご存知ないのかもしれない。
さらに、やはりここでも、長老は、ブラフマンとブラフマー神(梵天)を一緒くたにしているようである。
<結び>
こうしてみると、長老のインド哲学に対する誤解は、中性名詞の「ブラフマン」と、男性名詞の「ブラフマン(ブラフマー神、梵天)」の混同を含む、ブラフマンに対する認識のぶれ(あるいは、理解の不足)に起因しているようである。また、自派(テーラワーダ)の教義の解説は分析的、かつ、丁寧で分かりやすいのだが、他宗・他派に関しては、以上見てきたことを考え合わせれば、実は、かなり大雑把なのかもしれない。この点には、私も気をつけて読み進めなければいけないと思う。長老が他宗・他派に言及なさるときは、批判的文脈で語られることが多いので、なおさらである。安易な他宗・他派批判に陥らないように、自分も気をつけて読み進める必要がありそうだ。
さて、「ブッダの実践心理学」第4巻がいよいよ出版されるそうです。
今のペースで読み進められれば、7月半ばには3巻目も読了するでしょう。
この時期での第4巻の刊行は、ありがたいことです。
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<関連記事>
サティ考――地橋秀雄著「ブッダの瞑想法」を読む
ヴィパッサナー考――『ブッダの瞑想法』を読む
なお、「シャンカラ」に興味のおありの方は、中村、前田両博士の前掲書をご覧ください。
また、本ブログのメインサイト「Hinduism & Vedanta」には、「イーシャー・ウパニシャッド」と「バガヴァッド・ギーター」に対するシャンカラの註釈を、拙訳でアップしております。
ぜひご一読くださいませ。