映画『CUT』と、それに付随する一考察(1) | 中年男は電気羊の夢を見るか?

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社会から、ちょっと外れた中年男が、夢見るブログです。

 

 


『CUT』 を観た。

 

 

 

 

これを撮ったイラン人映画監督アミール・デナリ氏が、

 

 

 

映画をこよなく愛していて、自由に映画を撮る事が

 

 

出来なくなった現状をひどく嘆き憂いでいる、

 

 

と言う事がヒシヒシと伝わってくる実に痛々しい力作だ。

 

 

 

また、監督と意気投合して本作に出演し、

 

 

 

見事に監督が言いたい事を体現した西島秀俊さんは、

 

 

称賛されて然るべき表現力を確かに見せつけている

 

 

とも感じた。

 

 

 

内容は至ってシンプルなプロット。

 

 

 まともな収入も無いまま、映画の事だけを考えて

 

 

 日々を過ごす弟(西島)は、死んだ兄が残した

 

 

 借金の返済の為に暴力団相手の ”殴られ屋” となる。

 

 

 容赦なく殴られ続ける拷問の様な過酷な日々を、

 

 

 弟は、自分が愛してやまない映画の事だけを

 

 

 思い続けて必死に耐え凌ぐ。

 

 

 そうして期日までにどうにか借金を完済し、

 

 

 組織の幹部に一目置かれた弟が、

 

 

 改めて組織に要求したものとは……。

 

 

 

 

劇中、往年の名作のタイトルや映像がちりばめられていて、

 

 

 

 

シネフィルを自認する人は大いに楽しめるでしょう。

 

 

ちなみに私はそれらの1/4も観ていなかったが、

 

 

それでも製作サイドの言いたい事が理解でき、

 

 

その思いに共感できたのは、作り手のメッセージが

 

 

主人公の台詞としてストレートに叫ばれていたから。

 

 

以下がそれだ。

 

 

 

 

「 映画の芸術的側面は死に絶えようとしています。

 

 

 

 

 金にまみれた、表面だけ映画の振りをした偽の映画達によって、

 

 

 映画は抹殺されようとしている。シネコンに巣食っている、

 

 

 あの金儲け主義のクソ野郎どもの手から映画を取り戻し、

 

 

 もう一度、映画を蘇らせて下さい。

 

 

 その為には、本物の映画を観る事です。

 

 

 かつて、映画は真に芸術であり、同時に、真に娯楽でした。

 

 

 我々はそれを知っていた筈です。思い出して下さい。

 

 

 今がその時だ。

 

 

 現在、シネコンにかかっている映画は殆どが娯楽映画です。

 

 

 娯楽映画はいくらあってもかまわない。だが、そのせいで

 

 

 本物の映画を観る機会が無くなる事を、その事だけは

 

 

 許してはならない。

 

 

 本物の映画には、金で出来た在りもしない偽の映像

 

 

 などではなく、本物の人間の肉体と魂とで出来た

 

 

 本物の映像があります。現在も、真の映画とは何か、

 

 

 その事を考えて映画を作り続けている監督が、

 

 

 世界には数多く存在します。

 

 

 彼らの映画を映画館に観に行って下さい。

 

 

 そこには真実を、芸術を、そして真の娯楽がある筈です。

 

 

 映画館に、真の映画監督の作品を観に行って下さい。

 

 

 本物の映画をもう一度、観直してみて下さい。

 

 

 映画は必ず蘇ってくれます。

 

 

 映画は我々と同様、自由にこの世界に存在しなければならない。

 

 

 本物の映画とは、そういうものである筈です 」

 

 

             ( 脚本:アミール・デナリ 映画本編より書写 )

 

 

 

 

これは、劇中で一貫している主人公(西島)の主張。

 

 

 

 

それが本編のクライマックスで、

 

 

"殴られ屋"となった主人公(西島)が

 

 

殴られる苦痛をただひたすら耐え続ける、

 

 

その狂気の姿に被せてモノローグとして語られる。

 

 

要するに、これがまんま作り手の言い分なのだろう。

 

 


 

そこで、

 

この映画を観ていて、疑問が湧いてきた。

 

 

 

 それは、

 

 

 

    映画の芸術性とは何か? 

 

 

 という事だ。

 

 

これについては、改めて考えてみたいと思う。

 

 

 

                         つづく。