『CUT』 を観た。
これを撮ったイラン人映画監督アミール・デナリ氏が、
映画をこよなく愛していて、自由に映画を撮る事が
出来なくなった現状をひどく嘆き憂いでいる、
と言う事がヒシヒシと伝わってくる実に痛々しい力作だ。
また、監督と意気投合して本作に出演し、
見事に監督が言いたい事を体現した西島秀俊さんは、
称賛されて然るべき表現力を確かに見せつけている
とも感じた。
内容は至ってシンプルなプロット。
まともな収入も無いまま、映画の事だけを考えて
日々を過ごす弟(西島)は、死んだ兄が残した
借金の返済の為に暴力団相手の ”殴られ屋” となる。
容赦なく殴られ続ける拷問の様な過酷な日々を、
弟は、自分が愛してやまない映画の事だけを
思い続けて必死に耐え凌ぐ。
そうして期日までにどうにか借金を完済し、
組織の幹部に一目置かれた弟が、
改めて組織に要求したものとは……。
劇中、往年の名作のタイトルや映像がちりばめられていて、
シネフィルを自認する人は大いに楽しめるでしょう。
ちなみに私はそれらの1/4も観ていなかったが、
それでも製作サイドの言いたい事が理解でき、
その思いに共感できたのは、作り手のメッセージが
主人公の台詞としてストレートに叫ばれていたから。
以下がそれだ。
「 映画の芸術的側面は死に絶えようとしています。
金にまみれた、表面だけ映画の振りをした偽の映画達によって、
映画は抹殺されようとしている。シネコンに巣食っている、
あの金儲け主義のクソ野郎どもの手から映画を取り戻し、
もう一度、映画を蘇らせて下さい。
その為には、本物の映画を観る事です。
かつて、映画は真に芸術であり、同時に、真に娯楽でした。
我々はそれを知っていた筈です。思い出して下さい。
今がその時だ。
現在、シネコンにかかっている映画は殆どが娯楽映画です。
娯楽映画はいくらあってもかまわない。だが、そのせいで
本物の映画を観る機会が無くなる事を、その事だけは
許してはならない。
本物の映画には、金で出来た在りもしない偽の映像
などではなく、本物の人間の肉体と魂とで出来た
本物の映像があります。現在も、真の映画とは何か、
その事を考えて映画を作り続けている監督が、
世界には数多く存在します。
彼らの映画を映画館に観に行って下さい。
そこには真実を、芸術を、そして真の娯楽がある筈です。
映画館に、真の映画監督の作品を観に行って下さい。
本物の映画をもう一度、観直してみて下さい。
映画は必ず蘇ってくれます。
映画は我々と同様、自由にこの世界に存在しなければならない。
本物の映画とは、そういうものである筈です 」
( 脚本:アミール・デナリ 映画本編より書写 )
これは、劇中で一貫している主人公(西島)の主張。
それが本編のクライマックスで、
"殴られ屋"となった主人公(西島)が
殴られる苦痛をただひたすら耐え続ける、
その狂気の姿に被せてモノローグとして語られる。
要するに、これがまんま作り手の言い分なのだろう。
そこで、
この映画を観ていて、疑問が湧いてきた。
それは、
映画の芸術性とは何か?
という事だ。
これについては、改めて考えてみたいと思う。
つづく。