『魏志倭人伝』(『三国志』魏書・東夷伝倭人条)の邪馬台国の女王・卑弥呼と、それに対立した狗奴国(くなこく)に関する記述は、当時の日本の情勢を知る上で最も重要な部分です。
1. 卑弥呼の登場と統治
その国(倭国)ももとは男子を王としていたが、住むこと七、八十年で倭国は乱れ、何年も攻め合いが続いた。そこで、一人の女子を共に立てて王とした。名を卑弥呼という。彼女は鬼道(きどう)に仕え、よく人々を惑わした(注:人心を掌握したの意)。年齢はすでに高齢であったが、夫は持たず、弟がいて彼女を助けて国を治めていた。王となってからは、彼女に会った者は少なく、千人の侍女をはべらせ、ただ一人の男子が飲食を給仕し、彼女の言葉を伝えるために出入りしていた。
2. 狗奴国との対立
女王国の南に狗奴国がある。ここの男子を王とし、その官(役人)を「狗古智卑狗(くこちひく)」という。この国は女王(卑弥呼)に属していなかった。
(景初二年の朝貢の後)正始八年(247年)、太守の王頎(おうき)が官所にやってきた。倭の女王である卑弥呼は、もともと狗奴国の男王・卑弥弓呼(ひみここ)と仲が悪く、ついに互いに攻撃し合うようになった。卑弥呼は(魏の)塞曹掾(さいそうえん)の史載(しさい)らを遣わして、太守の役所に戦いの様子を報告した。
3. 卑弥呼の死とその後
(魏の長官である張政が詔書と錦の旗を届けて激励したが)卑弥呼はすでに死去していた。
大きな塚が作られた。直径は百余歩(約150メートル前後)もあり、奴婢百余人が殉葬された。
その後、改めて男子を王に立てたが、国中がこれに服さず、互いに殺し合って千余人が死んだ。そこで、卑弥呼の宗女(親族の娘)で、十三歳の**壱与(いよ)**を立てて王としたところ、国の中はようやく鎮まった。
1. 狗奴国の重要人物
国王:卑弥弓呼(ひみここ) 狗奴国の男王です。邪馬台国の女王である卑弥呼(ひみこ)と名前の響きが非常に似ていますが、全く別の勢力の指導者として記述されています。
官(役人):狗古智卑狗(くこちひく) 狗奴国の官(役人)です。この名前は、後の時代の地名や官職から「菊池の彦(きくちのひこ)」と解読する説が有名で、熊本県菊池郡との関連が指摘されることが多い名前です。
2. 狗奴国の位置
記述内容: 「女王国の南にある」
具体的な比定地(説):
九州説をとる場合: 邪馬台国が北部九州にあると仮定すると、その南に位置する「熊本県(肥後国)」付近を指すと考えられます。
3. 狗奴国の特徴と関係性
独立勢力: 卑弥呼の支配(女王国連合)に属さず、対立関係にありました。
男王の国: 女子を共立した邪馬台国に対し、一貫して男王が統治する国として描かれています。
軍事力: 卑弥呼が魏の国に助けを求める報告を出すほど、強力な軍事力を持っていたことが推測されます。
台与と狗奴国の戦争の結果
卑弥呼の死と混乱: 狗奴国との戦いの最中に卑弥呼が死去し、一度は男子の王が立ちましたが、国中が服さず千人余りが殺し合う大混乱に陥りました。
台与の即位による鎮静化: 卑弥呼の親族の娘である13歳の台与が王に立つと、ようやく国は収まりました。
魏への報告: 西暦248年、台与は魏の使者である張政(ちょうせい)が帰国する際、大夫の「伊声耆(いせき)」ら20人を同行させ、魏の都へ貢献(朝貢)を行っています。
明確な「狗奴国滅亡」の記録はありませんが、台与が魏へ使節を送れていることから、邪馬台国連合が崩壊を免れ、一定の安定を取り戻したことがわかります。
2. 卑弥弓呼(ひみここ)のその後
台与が248年に魏へ送った使節の記録を最後に、中国の史書から「倭」に関する記述は約150年近く途絶えることになります(いわゆる「空白の4世紀」)。この間に、邪馬台国連合と狗奴国のような勢力がどのように統合され、後のヤマト王権へと繋がっていったのかが、日本古代史最大の論点となっています。