最後の再審請求 No.80
2019年9月12日
私にとっては最後の裁判になるでしょう。
もう戦いに疲れました。楽になりたいと言うのが今の心境です。
脳梗塞の後遺症のせいかあるいは76歳と言う年齢が私の意志をも挫けさせてしまったのか、これ以上の戦いを続けることは辞めます。
しかし、敗訴して撤退ということではありません。
今回の再審請求で必ず勝つと確認するからです。
私が勝たなければ、日本は法治国家ではないと自ら証明することになるからです。
権力者や大企業がこの日本を私物化し好き勝手に操ることができる国であることを国民の前に示すことになるからです。
私のメールマガジンやブログを読む人の数は国民全体の人数に比べれば微々たるものでしょうが、20年近くも発信し続けている私の考え方や生き様は必ず後世に伝わり継承されると信じています。
そうでなければ私個人にとっては何の利益も生み出さない今までの作業は全く無意味なものとなります。
今日まで私が主張し続けることができたのも同じような境遇に遭遇した被害者が励ましの言葉と経緯を知らせてくれるからです。
その人たちのためにも戦い続けるのが私の使命だと考えて、それを糧に続けてきました。
香港での市民の活動は権力者に対して行動を起こしたからです。現在進行形の香港での騒動の結果はどのようなるかは分かりません。
しかし、日本はどうでしょうか?
集団で多くの市民が抗議運動をした事例はあるでしょうか?
せいぜい国会の周りを集団で大声を張り上げる程度の大人しい抗議しかありません。
日本の国民は強いものに立ち向かう勇気のある人達がどのような結末に陥るかを数多くの事例で知っています。
善良な官僚が正論を言っただけで左遷された事例や、上司から命じられた不正を拒絶し、勇気を持ってそのことを告発した人のその後の両者の処遇はその顕著な事例として上げることができます。
日本では不正を命じた上司は栄転し内部告発をした職員は退職に追い込まれるという事例を嫌というほど国民は見てきました。
日本国民はいつまでこのような不正に目を瞑っているのですか、そろそろ声を上げる時ではないでしょうか?
強者が弱者を制するという構図を改める時が来たのではないでしょうか?
裁判制度はそのためにあるはずです。時の権力の大小ではなく法律に照らし、公正にかつ公平に裁くのがその使命です。
私が前回申し立てた再審請求を棄却した最高裁の五人の名前を公表しました。
証拠を検証して欲しいと言う簡単なことにもかかわらず証拠なんか調べる必要はないという非常な決定です。
何故証拠を検証する必要がないかを明記すべきです。
裁判員制度は一般市民の常識を必要とするとして取り入れられた制度です。
最高裁判所の裁判官だけが何故一般常識を必要とされないのですか!
私の裁判官に対する不信感は東京地裁に訴状を提出した時から始まります。
被告のみずほ証券のお客様部長が社内調査の結果だとして私にその内容説明したことで、裁判になったのです。
被告のみずほ証券のお客様部長が社内に記録されている電話の記録から判断すると「あなたの言われると通りどうも社員が不正を働いたような・・・」と言われたのでその電話記録を欲しいと要求すると、会社にとって不利となるような音声記録は渡せません。裁判にすれば容易に入手できるので裁判にして下さい」と言われ提訴した経緯があります。
地裁の裁判官はなぜかこの音声記録を法廷に出す必要なないと決定しました。
そこでこの音声記録を入手する方法を思案し、金融庁を通して勧告してもらいました。
この音声記録は明らかに社員が計画的に詐欺を働こうとしている意思が読み取れる会話でした。
被告のみずほ証券は金融庁の勧告に対して裁判中と言う理由を付け提出を拒絶しました。
私はこの致命的な証拠の提出を何度も求め高裁でも同じ手続きを取りました。
しかし、三人の裁判官が担当するこの案件に対し途中で一人の裁判官を入れ替えました。全員一致の裁判結果にならないので言う事を聞く裁判官に差し替えた疑いがあると裁判中に強く抗議しました。
このような地裁、高裁での判決に納得がいかない私たちは最高裁の裁判官の良心にかけました。
しかし、結果は同じです。たった13人しかいない最高裁の裁判官なのにそのうちの5人の裁判官の判断は地裁、高裁の裁判官の判断と同じです。
ここまで同じ判決が下されるとさすがに私も何かが変だと思いました。
私の主張が変なのか裁判官の判断が変なのか全く分かりません。
とりあえず最後まで戦うと決めた私は最高裁の13人の裁判官の過半数が従来の裁判官の判断を支持するのかどうか確かめることにしました。
もう一度再審請求をすると5人の裁判官が審査することになるからです。
前回の裁判官と重複しなければ合計10人の裁判官の判断を得ることができるからです。
民主主義の社会の中で生きていく私たち日本国民は多数決で決まったことには従わなくてはなりません。
最高裁の13人裁判官の過半数がこれまでの判決を支持するのならその決定に従います。
もし戦うとすれば民主主義の必要性についてです。またもし民主主義が国家の存続に不可欠なものであるとすればその要件ついて徹底的に見直すことだと思います。
私が航空自衛隊を追い出された時に経験したことがまさしく民主主義という言葉と多数決というもっともらしい言葉です。
上官の不正を咎めた私に対して一方的に暴力を振るった上官が口にした言葉が正しくこの言葉です。
この上官は10人ほどの部下を支配し、自分が私に対して暴力を振るった。しかし、彼は暴力を振るったのは私だとして、人物を入れ替え「お前ら見たか!こいつが俺を殴った。分かったな。お前ら証人だぞ」と大声で部下に命令したところ、今まで祝杯を上げていた全員の部下は急に下を向き、こちらの様子を見ていなかったかのような素振りをしだした。
この様子を指差しながら上官は誇らしげに「こいつらは本当のことを言う勇気はない。家族を養わなければならない自衛官が何の得にもならないのにお前のために本当のことを言う奴は誰もいない。民主主義とはありがたい。全員一致で同じことを言えば世の中何とでもできる。覚えておけ。明日辞表を出せ。出さなければ、上官に暴力を振るったとして懲戒免職にしてやる。あいつらが証人だ」と怒鳴りつけた日のことが形を変えて再び私の前に表れてきました。
今度は最高裁判所の裁判官がこの時の部下の姿と重なって見えるのは私の被害妄想でしょうか?
最後の戦いとして再審請求した内容は新たの証拠を見つけたので、またその証拠を入手したので行動を起こしました。
今回は再審請求ですので証拠についての信用性が重要だと考え、老舗の三越百貨店すなわち株式会社三越伊勢丹の書面による証拠と、社会保険庁が発行する書類の2点を根拠に申し立てました。
平成19年10月19日付の被告みずほ証券が法廷に証拠として提出した書類はみずほ証券が偽造したものであるとする私たちの主張を証明する証拠となる2通書面を提出したのです。
まず一点目の三越の証拠は当日私たちは自宅には居なく、三越にいたことを証明するものです。にもかかわらずみずほ証券は私たちの家に行き書類にサインと印鑑をもらったと主張しているのです。
次の社会保険庁が発行した書類には年金を平成23年2月から支給しますという通知です。しかし、みずほ証券が法廷に提出した平成19年10月19日付の書類には「既に年金を受給しています」となっているのです。
同じ書類に2箇所も誤りがあるのです。それでも地裁、高裁、最高裁は証拠を検証する必要はないとして判決を下したのです。
すなわちみずほ証券は書類を偽造していないと判断したのです。
私が明らかな証拠して集めることができたのは奇跡に近いものです。
なぜならみずほ証券が証拠として法廷に提出した書面のほとんどがみずほ証券だけが保管し顧客には控えさえ渡さない仕組みになっています。
したがって上記の書面もみずほ証券が法廷に提出した後でその内容を知ることになったのです。
もし、みずほ証券が控えを渡す通常の業務方式をとっていたなら私たちは直ちに日付や内容の改ざんや指摘でき、このような苦労をしなくても済んだのにと極めて残念です。
事の発端は初めて会った日に作成した総合取引申込書を隠蔽されたことです。
翌日同じ書類を持参し署名と捺印だけを求め、空白になった書き込み事項を勝手気ままにみずほ証券が書入れあたかも私たちが自発的に書いたように偽装したことから始まりました。
元の申込書には抹消後7年間保存のことと記載されており、その事を説明した上で、同じ書類を書かせたのは巧妙な詐欺です。
元の書類はたとえ書き存じたとしても破棄されません。履歴として保存されるべき書類ですとまで説明した社員のモラルは一体どうなっているのかと疑いたくなるみずほ証券です。
また社員の不正の疑いがあると判断した一部の良心的な社員すぐに追い出し、巧妙に書類を偽造し続け裁判所に証拠として提出するみずほ証券の体質はコンプライアンスはどうなっているのでしょうか?
今回提出した私たちの証拠はみずほ証券の書類が余りにも稚拙であることを示しています。
そんな稚拙な書類でも裁判官は信用してくれると過信しているのでしょうか?
それともみずほ証券は裁判官を自由に操れると特別な能力があるのでしょうか?
裁判員制度で招集をかけられた一般国民でさえ疑問を持つでしょう。
なぜ、専門の知識と法律に詳しい裁判官が偽造書類を証拠として採用するのですか?
私にはその理由が分かりません。
みなさんも裁判官に問うてみてください。
一緒に声を上げてください。