昨日は御年78歳の国語の先生を助手席に乗せて帰宅しました。

人妻はセクシーだと塾で大声で言っていましたが、皆、大笑い

年齢を重ねるのは好いものだと思いました。

さて、昨日はプチボスからマルチビタミンの差し入れがありました。

がんまりますよ。 夏期講習も一対一  こんなラッキーあっていいの??

と私は思います。生徒は優秀でやる気バンバン。自ずと私のやる気に火が

つきます。楽しい時間でした。



陸羯南と正岡子規展 特別記念講演で心に残ったこと


正岡子規は陸羯南がオーナー・主筆を務める新聞「日本」に10年在籍し、


「日本」舞台に俳句、短歌の革新運動、文芸活動を展開し、俳壇に日本派


の名を高めました。その功績は余人を持って代え難いものだったに違い


ありません。10年間在籍する日本新聞社ですが、うち7年間病気のため


出社できませんでした。しかし、彼は新聞「日本」から、


当時破格の月給40円(推定現在の50万円前後)支給されていました。


また、足りないものがある度に10円、20円と渡されていたようです。


社員や文筆家達の集まりを正岡子規の家で行ったこともあったそうです。


ある日、子規が陸羯南の家(子規の向かい)に訪ねたとき、這って歩く子規


の行く先々座布団を敷いていく家族の姿があったそうです。


子規の病気は脊椎カリエス(脊椎の結核)ですから、普通であれば、子供を


子規の病床に頻繁に見舞わせたりはしないものですよね。でも、陸羯南夫婦


は頻繁にそれをしました。


陸羯南の奥さん、てつ子さんは「あなた方が子規のおじさんのすぐおそばに


いくと、子規のおじさんが困るのだから、近くに行ってご迷惑をおかけしては


いけないのよ」と娘達に言い聞かせていたそうです。陸羯南の奥さん てつ子


さんは子規が亡くなる前日まで重湯をお届けしていたようです。てつ子さんは


美しい女性でした。そして、このように聡明な女性でした。私はこの てつ子


さんと女性に大変興味を持ちます。若干15才で10才以上離れた男性のもと


嫁ぎ、このように素晴らしい女性であったということは?? 


陸羯南がどのように彼女と接していたのか??


子規の墓誌名には 「日本新聞社員タリ 月給四十円」と書かれています。


それは「仰臥満録」に記載されています。ひとえに新聞日本社員であったこと


の誇り、陸羯南に対する感謝の気持ちの表れであった  


と講演者和田克司氏の言です。