3月1日は、母の命日です。
8年前に大腸がんで亡くなりました。
毎年恒例の新年会の家族旅行には行けましたが、12月頃から体調が悪くて、貧血なんだと言っていました。
2016年1月3日那須塩原にて。
私も若いー
旅行ではあまり食事は出来ず、ふくよかだった母が痩せてしまっていて、もしかしたら癌なんじゃないかな?と思っていました。
旅行から帰ったら、すぐに病院に行くように言ったけど、結局、入院したのは2月の始めで、検査入院という形でした。
入院した次の日あたりまでは、普通に話をしていました。
次にお見舞いに行った時には、必要な物を買って来て欲しいとか、洗濯して欲しいという話だったので、私はその用事を済ませて病室に戻ると、母は寒い寒いと言ってガタガタ震えていました。
伯母がお見舞いに来ました。
でも母は、
「お父さんはまだ来ないの?」
と何度も言っていました。
看護師さんに電気毛布をお願いして、父に早く来て欲しいと連絡をしました。
伯母にどんな病状なのか聞かれましたが、私も弟達も父からの説明だけで、よくわからない状況で、とても不安なんだと伝えました。
伯母が看護師さんに
「子供達が母親の病状がわからなくてとても不安なので、子供達にも医師からの病状の説明をお願いします!」
と言ってくれました。
この日に母は発熱し、後日手術となりました。
術後、主治医の先生に、弟と私との3人での面談の時間を作っていただき、手術と病状の説明がありました。
大腸がんのステージ4です。
開腹したけど、癒着が酷いし、あちこちに癌が広がっていたので、人工肛門だけ作って閉じました。
要約するとそんな感じの話でした。
実際には、もう少し詳しく図を描いたりして、優しく説明してくださいました。
手術後、一般病棟に戻ってからの母は、ストレスから耳が遠くなり、あまり会話にならない状態でした。
ハーゲンダッツのアイスが食べたいと言っていたので、弟が買って行って、医師に一口でいいから食べさせてあげたいとお願いして、食べさせてあげた記憶があります。
その次にお見舞いに行った時には、母が暴れて手が付けられないからと、ナースステーションで赤ちゃんのお人形のお世話をさせられていて、ビックリしました
母に話かけると
「暴れるから、赤ちゃんのお世話させられてるの!」
と自分でも言っていました
ベッドに居る時は、拘束手袋とかされていたみたいです。
お腹が痛いと言っていて、アイスノンに新しい氷を入れろと、私の居る間にも何度もナースにお願いしました。
冷やしていると、少し痛みがマシになるようでした。
ナースも忙しくて、氷を今取り替えたばかりだからと、新しい氷を入れてくれなくて、そのまま母に持って行ったら、
「ぬるい!」
と凄く怒っていて、母の豹変した姿に戸惑いました。
もうこの次に会いに行った時には、会話も殆ど出来ず、私が母の側で泣いていたら、母が目を見開いて、ギュッと抱きしめてくれました♡
お見舞いに行くと毎回
「お父さんは、まだ来ないの?」
と母に聞かれました。
もう長くはないとの事で、個室の病室に移動になり、妹がなかなかお見舞いに来れなかったので、母の病室に泊まったり、孫を連れて行って会わせたり、最後の方は、父が毎日泊まっていました。
(病院から実家までは、徒歩圏です。)
そして、3月1日の早朝。
父から、もうあまり息をしていないとのLINEが来ました。
私は、子供達を学校と幼稚園に行かせてから、病院に駆けつけました。
兄弟の中で、私が1番病院に近いのに、私が1番最後に病院に着きました。
何故なら、母にマニュキュアを塗ってあげようと思って、一度家に戻ったから。
母は爪を綺麗にするのが好きだったから、綺麗にしてあげたくて。
父と私達兄弟が全員揃ってから、医師が来て死亡確認となりました。
看護師さんにお願いして、母にマニュキュアを塗る時間を頂き、妹とマニュキュアを塗りました。
主治医の先生や看護師さんに、
「毎日ご家族がお見舞いに来られて、お母さんは幸せでしたね!なかなか毎日お見舞いに来られる方は、いらっしゃいませんよ!」
と言われました。
母は入院して、確か24日位で亡くなったと思います。
急激に容態が悪化して、私達はとても戸惑いました。
母は入院中に
「幸せだった!ありがとう!」
と父に言ったそうです。
今日は亡くなった義母(夫の母)の誕生日でもあるので、ケーキを買って来て、お供えしました。
母が亡くなった同じ年の5月に義父(夫の父)が亡くなり、2019年7月に義母が亡くなりました。
義父と母の十三回忌に私は生きているのだろうか?
義母の七回忌も怪しいかもー?
いつもありがとうございます
笑顔溢れる毎日を過ごせますように
はっぴーらいふ