今日は月に一度の病院通いの日だった
もう10年以上続くこの日は
何年経っても朝から憂うつだ


土曜日の昼から行けるのは有難いことだが
病院に近づいていくほど暗い気持ちになる
駐車場は…満車ではないな
ほっとする


待合室に入ると10人ほどの患者がすでに待っている

受付を済ませて空いている椅子を見つけて座る
部屋の空気が重い…


長い梅雨がそろそろ終わりそうだったが
今日も雨だった
待合室の中はエアコンがかかっているのに
あまり涼しくない
嫌な空気だ


正面には大きなテレビが壁に掛かっていて
2時間ドラマの再放送のようなものをやっている
だが音声が絞ってあってほとんど聞こえない
そのせいかテレビを見ている人はほとんどいない



暑い…
エアコンがついているのに
汗がじわじわと体を湿らせていく
もう少しエアコンの温度を下げてくれないだろうか

首すじ、背中、脇の下から汗が出てくるのを感じる
不快だ

ふと自分の足元を見る
病院のスリッパを履く足まで汗ばんでいるような気がする
他の患者の足元を見るとスリッパを履かずに素足でいる人が何人かいる


暑いせいでもないだろうが
あまり綺麗とは言えない床に素足とは
ちょっと信じられない



もう予約時間を40分以上過ぎているのに
まだ呼ばれない
診察室の扉はいっこうに開かない


患者のため息が聞こえる
はぁ…
ふぅ…

人のため息にはそこにいる人達の気力を吸い取る力があるのだろうか
ため息を聞いていると頭が痛くなる…


待合患者がだんだんと増えている
診察は進まないのにどんどん患者が入ってくるからだ
もう椅子は満席で立っている人が7〜8人いる


待ちくたびれ人が受付に行ってまだ呼ばれないと不満を訴えている

僕の隣の人は70過ぎの太った男だ
大きなカバンの中からティッシュの箱を出して一枚づつティッシュを出して
自分の膝に丁寧に重ねている
一枚、二枚、三枚…
五枚ほど重ねると
両手に持って鼻をかんだ

はぁ…


若い女の子が壁に立っている
17〜18ぐらいの高校生ぐらいだろうか
髪はショートカットで目の大きい子
落ち着かない様子で窓の外を見ている


斜め前に座っているのは40代ぐらいの夫婦のようだ
奥さんがとてもつらそうだ
それを旦那さんが笑顔でなだめているように見える


いつの間にか待合室は満杯になってしまった

暑い…

待合室の空気はどんよりとして
とても重い


窓の外は雨足が強くなり
窓を雨が叩きつけている



診察室の扉はまだ開かない…














毎日毎日、曇りと雨の繰り返しだ

今週は太陽の光をほとんど見なかった

洗濯物がなかなか乾かないと妻がぶつぶつ言っている

そうなんだよな
本当は一気に洗いたいものがあるし
布団だって干したい

でも晴れ間がほとんどなくて干せない

特に7月になってからスッキリ晴れた日など記憶にない

学生は夏休みに入ったというのに
まだ梅雨明けにならない

そういえばまだセミの鳴き声も聞こえない

こんなに梅雨明けの遅い年は珍しい

そう思ってテレビを見ていると

梅雨明けしないまま夏が終わってしまった年もあったという

へぇ
そんな年あったっけ


去年の夏はひどかったなぁ

ひどい酷暑が続いた
あんなに暑い夏はツライ

酷暑の夏は勘弁して欲しいが
ジメジメした夏も
困るなぁ…










大正14年6月25

賢治は嘉内に手紙を出した

来春はわたくしも教師を辞めて、本当の百姓になって働きます」


これが嘉内への最後の手紙となってしまった 




嘉内は大正14年に結婚し

翌年青年訓練所の要職につき以来一貫して若者の農業指導に携わり

昭和12年2月

41歳で癌の為に亡くなった

二男一女の父だった

亡くなった時、賢治からの全ての手紙のファイルを枕元に置いていたという



賢治は北上川の河岸で一人暮らしをしながら畑を耕して本気で百姓になろうとした

しかし、その頃から結核性の病気で体調を崩し

昭和8年9月

37歳の生涯を閉じた


手帳に残された「雨ニモマケズ」には

病の為に嘉内と誓い合ったあの大きな志を果たせなかった無念の思いが込められているように思われる





嘉内が盛岡高等農林学校に入学する前の甲府中学時代

彼は弁論部に所属し短歌や絵も得意であった

今でも残されているスケッチ帳に興味深い絵が残されている


八ヶ岳山麓の風の神様を祀った石の祠の壊れた跡地を描いた絵

冬吹き下りる八ヶ岳下ろしを

山麓の人達は「 風の三郎 」と呼んで石の祠に祀っていた

嘉内がここを訪れた時には石の祠はすでに壊れていた

嘉内はその壊れた祠をそのまま描いた

風の神様に強い関心を持っていた事が伺える

スケッチは賢治の代表作「 風の又三郎 」を連想させる

風の又三郎 」は風の神様を思わせる転校生と子供達との交流を描いた作品だ



更にスケッチ帳には驚くべきものが描かれていた

それはハレー彗星を描いた絵だった

1910年5月20日夜8時と記されている

明治43年ハレー彗星が見られると日本中で話題になったが、日本では天候に恵まれずほとんどの地域で見る事ができなかった

だが、山梨付近で奇跡的に見られたという

嘉内は幸運にもハレー彗星を見る事ができたのだった

嘉内はこの絵にこう記している

銀漢を行く彗星は夜行列車の様に似て遥か虚空に消えにけり」

銀漢とは銀河のこと

まるで「 銀河鉄道の夜」を思わせる描写である



もうひとつ気になるスケッチがある

それは電信柱を描いたものだ

そもそも電信柱を絵の題材にするのは珍しい

嘉内がなぜ電信柱の絵を描いたのかは不明だが

賢治の残した短歌にこんなものがある


よりそいて、あかきうで木をつらねたる、夏草山の、でんしんばしら


更に賢治の童話の中に「 月夜の電信柱」という作品がある

月夜に電信柱は兵隊の格好をして歩き回るという奇抜な作品だ


嘉内はこのスケッチ帳を盛岡に持っていった

賢治にも見せて語り合ったことだろう


嘉内のスケッチ帳を見た賢治がこうした絵を目に焼き付けて

その後いろんな形で自分の作品の中に生かしていったように思われる


前述の賢治の短歌に詠まれた「 夏草山の電信柱 」は賢治と嘉内を投影したもののように感じられる

「 銀河鉄道の夜 」で描かれたサザンクロス駅の次の場面に出てくる野原の電信柱も

やはり賢治と嘉内を象徴する描写のように思われる



賢治と嘉内が共に過ごした時は短かった

だが大きな志しを共に共有した熱い思い出は賢治の生涯に深い影響を与えた


二人は別々の道を歩んだが

それぞれにあの夏の日

岩手山の夜に見た降るような銀河のもとで誓い合った思いは

ずっと二人の心の中に生き続けていたのだと思う。





終わり