大正14年6月25日
賢治は嘉内に手紙を出した
「 来春はわたくしも教師を辞めて、本当の百姓になって働きます」
これが嘉内への最後の手紙となってしまった
嘉内は大正14年に結婚し
翌年青年訓練所の要職につき以来一貫して若者の農業指導に携わり
昭和12年2月
41歳で癌の為に亡くなった
二男一女の父だった
亡くなった時、賢治からの全ての手紙のファイルを枕元に置いていたという
賢治は北上川の河岸で一人暮らしをしながら畑を耕して本気で百姓になろうとした
しかし、その頃から結核性の病気で体調を崩し
昭和8年9月
37歳の生涯を閉じた
手帳に残された「雨ニモマケズ」には
病の為に嘉内と誓い合ったあの大きな志を果たせなかった無念の思いが込められているように思われる
嘉内が盛岡高等農林学校に入学する前の甲府中学時代
彼は弁論部に所属し短歌や絵も得意であった
今でも残されているスケッチ帳に興味深い絵が残されている
八ヶ岳山麓の風の神様を祀った石の祠の壊れた跡地を描いた絵
冬吹き下りる八ヶ岳下ろしを
山麓の人達は「 風の三郎 」と呼んで石の祠に祀っていた
嘉内がここを訪れた時には石の祠はすでに壊れていた
嘉内はその壊れた祠をそのまま描いた
風の神様に強い関心を持っていた事が伺える
スケッチは賢治の代表作「 風の又三郎 」を連想させる
「 風の又三郎 」は風の神様を思わせる転校生と子供達との交流を描いた作品だ
更にスケッチ帳には驚くべきものが描かれていた
それはハレー彗星を描いた絵だった
1910年5月20日夜8時と記されている
明治43年ハレー彗星が見られると日本中で話題になったが、日本では天候に恵まれずほとんどの地域で見る事ができなかった
だが、山梨付近で奇跡的に見られたという
嘉内は幸運にもハレー彗星を見る事ができたのだった
嘉内はこの絵にこう記している
「 銀漢を行く彗星は夜行列車の様に似て遥か虚空に消えにけり」
銀漢とは銀河のこと
まるで「 銀河鉄道の夜」を思わせる描写である
もうひとつ気になるスケッチがある
それは電信柱を描いたものだ
そもそも電信柱を絵の題材にするのは珍しい
嘉内がなぜ電信柱の絵を描いたのかは不明だが
賢治の残した短歌にこんなものがある
「 よりそいて、あかきうで木をつらねたる、夏草山の、でんしんばしら 」
更に賢治の童話の中に「 月夜の電信柱」という作品がある
月夜に電信柱は兵隊の格好をして歩き回るという奇抜な作品だ
嘉内はこのスケッチ帳を盛岡に持っていった
賢治にも見せて語り合ったことだろう
嘉内のスケッチ帳を見た賢治がこうした絵を目に焼き付けて
その後いろんな形で自分の作品の中に生かしていったように思われる
前述の賢治の短歌に詠まれた「 夏草山の電信柱 」は賢治と嘉内を投影したもののように感じられる
「 銀河鉄道の夜 」で描かれたサザンクロス駅の次の場面に出てくる野原の電信柱も
やはり賢治と嘉内を象徴する描写のように思われる
賢治と嘉内が共に過ごした時は短かった
だが大きな志しを共に共有した熱い思い出は賢治の生涯に深い影響を与えた
二人は別々の道を歩んだが
それぞれにあの夏の日
岩手山の夜に見た降るような銀河のもとで誓い合った思いは
ずっと二人の心の中に生き続けていたのだと思う。
終わり