賢治と嘉内の付き合いは手紙のやり取りだけとなった

嘉内宛の賢治の手紙は山梨県立文学館に現在も保存されている


大正5年から大正14年までの間に73通もの手紙を賢治は嘉内に送っている


「 ともにしっかりやりませう。」

と20回も繰り返し書かれているもの


「 南無妙法蓮華経」とだけ表と裏にビッシリと繰り返し書かれたもの


その多くは嘉内を励まし、また法華経を信奉するように勧める内容だったが

嘉内の反応ははかばかしくなかった


その中で二人で登った岩手山での誓いを思い出す手紙もいくつかあった


「 あの銀河が白々と南から北にかかり、静かな裾野の薄明かりの中に、消えたたいまつを吹いていた事。あの柏原の夜の中でたいまつが消えてしまい、貴方と代わる代わる一生懸命そのおきを吹いた。おきは小さな赤児の手のひらが夜の赤い花のように光り。かつて盛岡で我々がめいめいの中に立てた、あの大きな願いは、あなたを去らない事を少しも疑いません。」


そして、賢治の振り絞るような悲痛な言葉も残されている


「 私( わたくし )が友、保坂嘉内、私が友、保坂嘉内、我を棄てるな」


大正9年の手紙であった



嘉内が去って3年が過ぎた

大正10年、賢治は日蓮宗系の宗教団体の奉仕活動で東京に下宿していた

そこに嘉内から手紙が来た


軍隊に志願して一年

現役除隊となったが、今度は見習い士官として応召して、7月1日から東京の兵舎に入隊したという


二人は7月18日

上野帝国図書館で再会した

再会の場所はその3階の閲覧室だった

賢治は嘉内をダルゲという名前にして

再会の様子を詩やエッセイに残している


「 さうだ、このおおきな室にダルゲが居て、こんどこそもう会へるのだ。

おれはなんだか胸のどこかが熱いか溶けるかしたやうだ。大きな扉が半分開く、おれはするっとはいって行く。室 (へや )はがらんとつめたくて、猫背のダルゲが額に手をかざして、おおきな窓から西ぞらをじっと眺めている。

ダルゲは陰気な灰いろで、腰には厚い硝子の蓑をまとっている。

ダルゲは少しもうごかない。」


賢治はその時悟ったのだ

嘉内はあの銀河の夜に誓いを立てたところから遠く離れたところに行ってしまったのだと


二人が何を話し合ったのかは分かっていない



これから後、二人が再び会うことは無かった




この頃賢治が書いた詩の断片がある


「 ひたすらにおもひたむれども、このこひしさをいかにせん、あるべきことにあらざれば、よるのみぞれを行きて泣く。」


賢治は自分の心に湧き上がっている感情を、あってはならない事、すなわち道に外れた事と思っていた

それはなんだったのだろう



大正10年12月

賢治は花巻の稗貫農学校の教師になった

化学や農業実習の担当だった


その翌年、賢治は詩人として創作活動を始めた

初めての詩集「 春と修羅 」はこう始まる


「 心象のはいいろはがねから、あけびのつるはくもにからまり、のばらのやぶや腐植の湿地、いちめんのいちめんの諂国 ( てんごく ) 模様 、いかりのにがさまた青さ、四月の気層のひかりの底を、唾 ( つばき ) しはぎしりゆききする、おれはひとりの修羅なのだ」


賢治はどのように修羅をイメージしたのか


日蓮のある本に

「 むさぼるは餓鬼、愚かなるは畜生、よこしまなるは修羅 」

とある

賢治は自らを、道を外れたよこしまな人間だと言っているのである


「 まことのことばはうしなはれ、雲はちぎれてそらをとぶ、ああかがやきの四月の底を、はぎしり燃えてゆききする、おれはひとりの修羅なのだ 、

日輪青くかげろへば、修羅は樹林に交響し、陥りくらむ天の椀から、黒い木の群落が延び、その枝はかなしくしげり、すべて二重の風景を、喪神の森の梢から、ひらめいてとびたつからす、気層いよいよすみわたり、ひのきもしんと天に立つころ、草地の黄金をすぎてくるもの、ことなくひとのかたちのもの、けらをまとひおれを見る農夫、ほんたうにおれが見えるのか、ほんたうにおれが見えるのか、まばゆい気圏の海の底に ( かなしみは青々ふかく )

( まことのことばはここになく、修羅のなみだはつちにふる )

あたらしくそらに息つけば、ほの白く肺はちぢまり、このからだそらのみぢんにちらばれ 」




  



つづく