夏も終わりというのに
その夜は

妙に蒸し暑い晩だった

仕事帰りにちょっとだけ飲みたくなった


電車の駅をいつもとは反対方向で降りて
商店街を抜けた先の坂道を登っていく

遠くに見える山の向こうから
大きな赤い満月がゆっくりと姿を現わした

そうか今日は満月だったんだ

それにしてもなんて赤い月なんだ

胸騒ぎがするような不気味な月だ


坂道の途中にある酒場に入る


重い木のドアを開けると
ひんやりした空気と
ほの暗い落ち着いた空間が目の前に現れた

中はテーブル席が4つとカウンター
髭を生やした中年のマスターに促されて
カウンターに座った

ビールをゆっくり飲んでいると

ハイボールが出された

「これ頼んでないよ」
と言うと

「あちらの方からの差し入れです」
と言う

カウンターの奥の席から
30代ぐらいの髪の長いちょっといい女がグラスを持って微笑んで合図をした

ドキリとした

「どうも」
と言ってグラスを上げて一口飲んだ

しばらくすると女がやってきて
「隣いいかしら」
と言う

「ええ、どうぞ」

女が座るとフンワリとしたフローラルの甘い香りが僕の鼻を刺激した

「あなたを見たら他人じゃない気がしたの」

白いブラウスと黒いタイトスカートをぴったりと身にまとっていた

ふくよかな胸と
締まった腰つき
体の線がよく分かって思わずゴクリとつばを飲んだ


「こういうのを逆ナンっていうんですかね」
と微笑んだ

「うふふ、ごめんなさい。実はあなたを見ていたら昔飼っていた犬を思い出したの」

僕は少しずっこけた

「犬ですか…さぞかし可愛い犬だったんでしょうね」

「ふふ、フレンチブルドッグだったの。ブルドッグのくせに臆病でね。知らない人が来ると怖がって私の後ろに隠れるの」

「あの…全然役にたたない犬だったんですね。僕の似てたんですか?」

「もう何年も前に死んじゃったんだけどね。あなたが店に入って来たのを見て、『あっ!あのこが帰ってきた』って思ったの」

「お気に入りだったんですか」

「そうなの。女ってそんなものよ。役にたつものばかりが好きじゃないのよ」

「はぁ、でも昔飼っていた犬に似ているといわれても」

「ごめんなさいね。なんだか懐かしい友達に会ったような気がしたの」

「あなたのような人とお話できるなら犬に似ていて良かったですよ」

「可笑しい人ね。私ったらひどい事言ってるのに怒らないのね」

女は笑いながらそう言って髪をかき上げた
イアリングが揺れて美しかった


「きっかけは何でもいいものです」

「あら、口説いてるの?」

「いえ、そういうわけでは…。飼い犬に口説かれても困るでしょ」

「えぇ、まあ…あなたはいま恋してるの?」

「もう結婚してますけどね、恋してるかどうか」

「いいのよ、今日は恋している人と飲みたくない気分なの」

そう言うと女は水割りを飲んだ

グラスに残された女の赤いルージュと
ごくりと動く女の白い喉がなまめかしかった


「月が真っ赤に見えました」
と僕が言うと

「赤い月の夜は女が大胆になるのよ」

「あなたもですか?」

「うふふ…どうかしら」

女は含み笑いをすると
また指で髪をかき上げた



「僕はね…出逢いというものは必然だと思うんです。こうして偶然言葉を交わすようになった僕らも実は逢うべくして逢ったんです」

「ふふ 素敵なことを言うのね。つまり私たちは出逢う運命だったの?」

「そうです。二人の出逢いに乾杯しましょう」

「いいわ。二人の出逢いに乾杯!」

そう言って僕らはハイボールで乾杯した


「ワンちゃんのおかげかしら?」


「ええ、きっと彼の粋なはからいのおかげです」


僕はいつになく雄弁になっていた
何故だかわからないが
熱にうなされた様にベラベラと喋り続けていた

女の赤い唇が妖艶に微笑んでいた

まるでその唇に操られるように僕は女を口説き続けた

女の目が熱く潤んでいた

潤むたびに少しづつ彼女はこちらに身を寄せてきて
僕はいい香りに包まれた



あと少し…












いつしか意識が無くなった…













目が覚めると
僕はカウンターに顔を埋めて眠っていた


いかん


横を見ると女の姿は無かった





「あれ~」

見渡すと他の客も消えていた

時計を見ると驚くべき時間が過ぎていた

「うわ!え~?あの~マスターお勘定は?」

「お連れさんが済ませていかれましたよ」

「えっ?」



僕は狐につままれたような気持で外に出た


月が大きく西に傾いていた





「月の赤い夜は…気をつけないとな…」

ボソリと呟いた




「でも…惜しかったなぁ…」


僕はぶつぶつ呟きながら坂道を降りていった



いつの間にか
月はいつもの銀色の月に戻っていた。