蒸し蒸しと暑さの残る夏の黄昏時に
僕はバス停までゆっくりと歩いていた
道端に白い夕顔の花が咲いていた
ずいぶん久しぶりに見た気がして懐かしい気持ちになった
古びた小さなバスの待合室のベンチにはサラリーマンが一人うつむいて座っていた
うなだれた中年の男は紺色のスーツに身を包み
虚ろな目をしていた
この夏の暑さにスーツ姿はつらかろう
無精ひげがのび
ワイシャツは襟が少し汚れ
生活に疲れているようにも見える
僕が少し離れた場所に座ると
待っていたかのように話しかけてきた
「もう生きているのがつらくてつらく仕方がありません」
「そんなに何が辛いのですか?」
と聞くと
「毎日朝早くから会社に行き 夜遅くまで外回りをしてもたいして業績が上がらない 会社に戻れば上司からはノルマが果たせていないだの 給料泥棒だのと罵られる。家に帰れば女房は子供の成績が悪いだの 近所や知り合いの人の悪口を機関銃のように喋りまくる。子供は自分の事など父親として尊敬もしてないし 無理して買ったマイホームはローンが定年後まで残っている。実家の年老いた両親の面倒も考えないといけない。もう自分にはやっていく自信がありません」
と言う
「それならそんな会社辞めて 奥さんとも別れちゃえばいいじゃないですか」
「とんでもない。私の年で転職しようと思ったってどこも雇ってくれません。女房もいまはカリカリしてますが 根は真面目でいい奴なんです。子供だって昔は素直ないい子だった」
「そうなんですか?でもローンもたくさん残っているし 働き詰めでくたくたなんでしょ」
「えぇ…そうです。正直払いきる自信がありません」
「無理して買ったんですね」
「はい…無理して買いました。こうなると分かっていたけど…夢でしたから」
「ご家族が喜ぶ顔が見たかったんですね」
「…はい…そうです」
「あなたは立派だと思いますよ。自分の事ではなく家族の為に頑張ってきた。そうでしょ」
「…はい…でももう限界なんです」
「もういいじゃないですか これ以上頑張らなくても 無理に残業しなくても。その分早く帰って奥さんの話を聞いてあげれば。ローンも返せなければ売ってアパートに住めばいい」
「えぇ…そうですね。そうしてもいいかな」
「なんとかなりますよ。人生は無理を重ねる為にあるんじゃない」
「はい…そうですね…なんだか気が楽になりました」
「もう一人で行けますよね」
「えっ?どこに行くんですか?」
「行き先が分からなくなってたんでしょ」
「…ええ そうでした。そうか…そういう事だったんですね…分かりました」
「では道を間違えないようにね」
「はい…ありがとうございました」
そう言うと男の姿は少しずつ薄れ
やがてすっかり消えてしまった
僕は男が座っていたベンチに座ると
いつの間にか現れたバスに乗り込んだ彼を見送った
そして本当のバスが来るまで
男を偲んで煙草を一本静かに吸った
待合室の足元には
赤い彼岸花が咲いていた
赤い美しい花は夕暮れの風に揺れて
ゆっくりと踊っているように見えた
でも
少しだけ寂しそうだった。