あれは三年前の
もう夏も終わるといった頃の事だった
久しぶりにまとまった休暇を取って
僕は田舎を旅していた
あてどなく
電車を乗り継ぎ
気に入った風景に出会うと
そこで降りて
歩き
宿を探した
その町は
海が見える小さな山あいの町だった
海辺の風景は
夏の暑さを残して
潮の香りを漂わせていたが
山あいの草原には
一面のコスモスが静かにゆらゆらとゆれていた
僕は小さな駅を降りると
ツクツクボウシの鳴く
ひなびた田舎道を歩いた
コンビニすらない
時代に取り残されたような小さな町
遠い昔に
こんな風景を見たような記憶があった
もう夕暮れになろうとした頃に
一軒の宿屋を見つけた
「時計のない宿」
という名の奇妙な宿屋だった
日本家屋のこざっぱりとした
藁葺き屋根の宿
引き戸を開けて中に入ると
かすりの着物を着た初老の男が出迎えてくれた
彼は上品な物腰で
「いらっしゃいませ、お待ちしておりました。どうぞごゆっくりなさってください。ただ、一つだけお願いがございます。お客様の時計をお預かりさせてください。この宿では時間を忘れて心からくつろいで頂きたいのです。」
ちょっと驚いたが
なるほど面白い趣向だと感心した
更に驚いた事に
ここにはカレンダーもテレビも電話も無かった
しかし通された和室は
とても居心地がよく
硝子戸の向こうには小さいながら落ち着いた庭を見る事ができた
ぼんやりと外を眺めていると
鳥のさえずりや
優しい風
葉っぱの落ちる音
小川のせせらぎを聞く事ができた
あぁ
気持ちいい
なんと解放された空間だ
あまりの居心地の良さに
僕は何日も連泊する事にした
時間や曜日に縛られずに
のんびりと過ごす事が何という幸せな事か
それから何日たった事だろう
いったいどれだけの時を過ごしたのか
一週間のようでもあり
一年を過ごしたようにも感じた
宿の主人に
「そろそろ帰らなくては」
と言うと
「いいじゃありませんか。せっかくいらしたのですから、気のすむまでいつまでもいて頂いても、ちっとも構いませんよ。」
と諭された
つい僕もそんな気持ちになって
そんな訳で
僕はまだ
時計のない宿に
滞在しているのです。