今回の記事は、新春特別企画ということで 自身の野球のルーツ
語ってみようかと思う。 今でこそ“タイガース愛”に満ち溢れている
が、かつては・・・タイガース以前に熱狂的「南海ホークス」ファンで
[少年ホークスの会]に入会していたほど。


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ホークスファンになった経緯は…なんといっても“環境”だった。
まず第一に、家うちのすぐ近所に大阪球場があったこと。当時、
関西には、阪神南海近鉄阪急…と4球団存在していたけど
やっぱ生粋の大阪人アブからすれば、“ザ・大阪”な球団であり
すぐ球場へ観に行けたという環境が成り立っていたのが大きくて
学校の友達の多くも
[少年ホークスの会]に入会して、学校が終わ
ったら一緒によく観に行ってたことも後押しすることになっていた。

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[少年ホークスの会]の会員証があれば、球場向かいにあった
ロッテリアのハンバーガーハンバーガーが1個無料でもらえて、しかも内・外野
自由席は無料
だった(まるで年間自由席みたい)ことから、ヒマ
があったら球場へ観に行けてた“環境”が当たり前にあったこと。

ただ、チームは最弱で・・・いつ行っても大阪球場ガラガラ状態。
かつての川崎球場もヒドかったが、同レベルで観客が来なかった。

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第二の“環境”としては、漫画の影響も大きかった。 水島新司
描く「あぶさん」の影響も多大だった。 当時は、「ドカベン」中心に
野球漫画も大流行していたのもあって、自然と野球への関心が
高かったし、地元球団を応援したいという思いが高まってたから。

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パ・リーグを見渡すと水島マンガさながらの個性派選手ばかり。
阪急森本(潔)なんて、ナイターでティアドロップのサングラスを
かけとったしね(笑)。 南海ホークスを見ても、香川カズ山本
ニャンコ藤本とか・・・ウサギ団「紳士たれ」とは真逆のキャラが
多かったのも楽しめる要素だった。


確かにチームは最弱だったけど…
ホークスの試合を観ながらも、
半分は観客のオッサンが超面白くて球場に通っていたところが
ある。 昔、太平洋(クラブライオンズ)梅田邦三って選手がおっ
たらしいけど、プレー中にちんたら歩いてたら近くの
オッサン
「おーい、
梅田ナンバ(大阪球場)でウロウロすなー」ってね
『なんてレベルの高い笑いなんや!』って衝撃を受けた。
それと、選手もお客さんの方(スタンド席)をよう見てくれたしね…
まぁ、後になって選手に聞いたら大阪球場はスタンドが急勾配
だからパンツが見える」
って言うとったのもワラけたわぁ(笑


大阪
“笑いの聖地”でもあったから、子供の頃から“お笑い”
に染まりながら育ってきたこともあり、“オモロイ”ことには非常に
興味が持てたから。また、
南海には小寺さんという応援団の方が
おってね。話を聞いたら、
南海は野球が弱い、球場もガラガラだし、
「そんな中でも来てくれるお客さんを我々が楽しませないと」という
使命感を持ってやっていたんだと…。阪急近鉄との野次り合いは
漫才を観るようでオモロかったもんなぁにひひ。   
近鉄戦の時なんか
今も残っている近鉄電車ではよ帰れ~』南海ファンらが言うと、
近鉄ファン
近鉄電車は2階建て、南海電車はボロ電車~」
返してきたり(笑、 阪急
戦の時なんかは、高級住宅地やから
「悔しかったら阪急沿線住んでみ~」ってヤジられたり
(笑。 皆、
ええオッサンが言うてたもんなぁ~(笑)。 それでも、当時は広岡
監督
率いる西武ライオンズがぶっちぎりの強さをみせており、それ
に対抗して
最後には『お互い西武だけには負けんとこなー』言うて、
近鉄阪急らとの関西3球団が共闘するかのように思わずホッと
して微笑んでしまう感じで、そんなオモロくて優しい空気があった。


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南海ホークスの選手の中でも、自身、最も憧れ好きだった選手は
「4番・レフト」門田だった(12球団一好きな選手)。パッと見、
中華料理店のオヤジみたいな風貌といつも思っていたけど(笑)
170㎝の小柄にして、このホークス「4番」を務め、44歳までプレー
をし、史上3位の通算567本塁打を放った不惑の和製大砲!



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ガラガラの球場でも
門田がすさまじいスイングで常にホームラン
を狙うみたいに、一挙手一投足、手を抜かず男の勝負をしていた。
鬼神が乗り移ったかのような凄まじいオーラを放ち、当たり損ない
や、ドライブのかかった打球はほとんどなく、ほとんどが120m級
の大飛球ばっかで、とにかく、外角球を流し打ってもレフトスタンド
に放り込める打撃術
には右打者も顔色なし…。 41歳になったと
いうのに
打率.305(6位)、33本、93打点の大活躍。それまでほと
んどDH出場だったのが、プロ20年目のこの年は外野を12年ぶり
に50試合以上守った。まさに不死身の男だった。  他の選手では
佐々木誠も好きだった…92年には首位打者盗塁王二冠
輝くなど
走攻守のすべてが魅力的だった。


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そんな関西3球団阪急近鉄は優勝しとるけど、南海ホークス
6位、5位、6位…とボロッボロだった。でも球場に行ってしまう
のは、『俺らが応援せなぁ誰が球場に行く!?』という
使命感かもしれへんかったねぇ。当時は球団が潰れるとか身売り
するなんて夢にも思わなかったし・・・。




1988年10月15日南海ホークスの本拠地・大阪球場が揺れた。
ダイエーへの身売りが決定。近鉄と本拠地公式戦ラストゲーム
でのモスグリーンのユニホームを目に焼き付けようと32000人もの
大観衆が詰めかけた(珍)。チケットGETできず、球場外で待機を
していたわぁ


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南海ホークスは現在のタイガース同様、大阪人の誇りだった。
鶴岡親分を筆頭に…別所、堀井、岡本、森下、木塚、蔭山、宅和、
皆川、穴吹、広瀬、杉山、大沢、野村、門田
らキラ星のような選手
が在籍。「グランドに銭が落ちている」鶴岡監督の名文句
“百万ドルの内野陣”“400フィート打線”など、流行語
になったものだった。 常にジャイアンツと栄光の座を争い続けて、
59年(昭和34)の日本シリーズではエース杉浦4連投で4連勝
初の日本一に輝き、涙の御堂筋パレードを実現させた。




そんな“ホークス”福岡に移り「福岡ダイエーホークス」
と名称を変え、唯一の九州のプロ野球球団として長年低迷期を
過ごしながら
和田、杉内、小久保、松中、城島、井口
川崎など
生え抜きスター選手を育ててきて常勝軍団を築き上げたが、ただ
“ホークス”冠は現状(ソフトバンク)でも残されているなど喜ばしい
ことではあるが、やっぱ
福岡へ移転してしまったことと、ダイエー
時代(南海ホークス戦士が生き残っていた頃)あたりまでは応援
していたけど…次第に興味も薄れていってしまったのは仕方ない。



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今となっては、唯一タイガースを応援している身となっているが、
たま~に 現ホークス(ソフトバンク)が往年ののユニフォームを
着てプレーしてる試合を観たりすると やっぱジ~ンとくる・・・



自分が南海ホークスを応援していた時代は、万年Bクラスの落ち
こぼれ球団
だったが、贅沢を言えば、
自身の生前の
野村克也
戦後初の三冠王に輝くなどした60年代の黄金時代ファン
を味わってみたかったなぁ・・・   今や優勝常連球団となった
ソフトバンクホークスやけど、いつの日か…必ずまた我らが
タイガースとの日本シリーズを実現してもらって、今度こそ3度目
の正直でタイガースが、大好きだったホークスを打ち破って引導を
渡せる形になってもらいたいねぇ~いつになるんやろうか・・・シラー