※これはあくまで翔太が見た夢をちょっとばかし脚色した物語であり、フィクションです。
「下高井戸、下高井戸。」
世田谷線の車内アナウンス。残り数ページを残して文庫本にしおりをはさみ立ち上がる。全血液が足の指先に集約された目眩を感じ、3色のLEDディスプレイが瞬く。時刻は18時43分を標していた。
京王線のプラットホームまでは階段の昇降が1つずつあり、40半ばともなると情けない事にこの上下移動に対して達成感を覚える。一段抜かしで早々と若い男性が肩をぶつけ左横を通り過ぎる。本能的に体が諦めていることをわかっているせいか、彼に対しての苛立ちを感じる事はなかった。僕は新宿へ向かう。
快速8車両は48分にホームへ流れ込んできた。この時間帯の上り車両は下りの半分以上に空いている。" 優先席 "という文字に慌てて携帯をポケットに戻す。車窓には夕方の薄暗い街並みをバックに、皺と弛みが年相応に刻まれた自分の顔が映る。無意識にも、さっきの男性を思い出していた。
代田橋を過ぎて笹塚。別路線からの乗り換え待ちで3分ほど停車する。すると1組の男女が2人分空いていた優先席へ腰かける。どちらとも自分と同じくらいの年代だろう。仕草や言動から察するに、女性は何か病気を煩っているらしい。職業柄推測するに、恐らく脳神経の障害、具体的なところまではわからないが、良い状態ではない。
女性が一瞬こちらを見上げる。僕の時は停まる。
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今から12年前、地元警察署より都心部の部署へ異動になり東京へ引っ越してきて間もない頃、近所の小料理屋で彼女は働いていた。特別、東京に興味があるわけでもなく辞令をそのまま飲み込んで上京してきた身としては、大都会のど真ん中に夜な夜な繰り出すこともなく、気づけば週に3回程度のペースでその店に顔を出していた。
野性的な強さの中に" 女 "を感じさせるくっきりとした目元に控えめな紅い唇。僕が客でも、別段遠慮することも謙遜することもない態度に絡まって魅せる色気。独り身で故郷を離れた僕としては、彼女が心の拠り所だった。
そんな彼女が、今此処にいる。
小料理屋から彼女が突然姿を消したのは、僕が33の誕生日を迎えた年だった。実家に帰っただとか、結婚しただとかいろんな噂が常連客の間で飛び交っていたが、本当のところ店の主人さえも理由は知らないらしい。この街にいる必然性もなくなり、新宿へ住処を移した。
京王線は地下へ潜り、前から後ろへ順番に車両を軋ませ新宿へ向かう。髪は当時より長く手入れもされてないが、瞳、口、輪郭、声、脳内で全てが彼女と合致していた。手に汗を握り、つり革が熱くなる。
口から涎を垂らしながら見上げた彼女と目が合った。今まで経験したことのない、長く辛い一瞬。ハンカチで彼女の口元を拭きながら男性が耳元で宥めるようなリズムで喋りかける。あの眩く逞しく、そして美しかった彼女の面影はほとんど消え去っていたが、瞳の奥底には12年前の、あの日のままの君がいた。無意識に目を逸らした僕もいた。
終点新宿にゆっくりと停車し、両側のドアが開く。この空間から一刻も早く逃げ出したい衝動が西口改札へのびるエスカレーターへ急かした。いろんな言い訳が頭を通り過ぎては自分勝手な答えを並べ、君じゃない誰かだと無理矢理信じ込ませる。メールを受信した携帯を眺めても、文字は頭に入ってこなかった。
僕は君に薬を塗ってあげれなかった
新宿の空は曇っていた
