宮崎県出身の戸高は、まさに九州男児とも言おうか根性があった。


1994年6月に宮崎ワールドジムからプロデビューし、1995年の9月には日本ランキング入り。

1996年6月に安藤謙三(グリーンツダ)を判定で破り日本ライトフライ級王座に就いた。


その後、何の繋がりも無いマック・クリハラトレーナーに指導してもらおうと、単身で渡米し、マックトレーナーに直談判。

マックに「君みたいのは初めてだ」と言わしめた。


マックトレーナーとのコンビで日本ライトフライ級王座の初防衛戦で村松竜二(石川)も判定で下したが、自身は右手首の剥離骨折の怪我でブランク。

結局、日本ライトフライ級王座は返上。


その後、マックに「名古屋のジムに移籍しなさい」と言われ、当時、飯田覚士が所属してた名古屋の緑ボクシングジムに移籍した。

その際に移籍金が宮崎ワールドジムから要求され、その後世界チャンピオンになってからも移籍金を払い続けたと。


しかしながら、この移籍によって戸高の世界戦が見えてきた。

同門の飯田覚士がヘスス・ロハス(ベネズエラ)に破れ世界王座を陥落し、そのロハスへの挑戦権が戸高に回ってきた。


だが、ロハスへの世界挑戦は試合を優勢に進めながら不運な四回負傷引き分けになった。

4ヶ月後のダイレクトのリターンマッチを制してWBA世界スーパーフライ級王座を獲得。


初防衛戦は、アマのエリートで鳴り物入りでプロに来た名護明彦(白井具志堅)。


この強打の名護明彦は日本スーパーフライ級王者の松倉義明(宮田)に圧勝し、世界前哨戦となった山口圭司戦は物議を醸す判定となったが、これも勝利し無敗をキープ。


「雑草VSエリート」とされたこの試合は1999年11月に両国国技館で開催され、自分も観戦。


試合前から原因不明の高熱の戸高に、試合中止の声もあったが、戸高は「熱くらいで」と試合を強行し、試合当日は体温も計らず、気持ちを乗せていった、と言う。


ゴングが鳴るや、名護に襲い掛かる戸高。

終始、手数で名護を圧倒し、判定で初防衛に成功。

二度目の防衛戦では、元世界王者のヨックタイ・シスオー(タイ)もKOした。


こうして迎えた三度目の防衛戦はレオ・ガメス(ベネズエラ)

ガメスの強打で顎の骨を砕かれ、壮絶な7回KO負け。

17ヶ月のブランクを余儀無くされた。


2003年10月、因縁のガメスとのWBA世界バンタム級暫定王座決定戦。


ガメスを判定で破り、暫定ながら世界二階級制覇を達成。


初防衛戦でメキシコのサラテに破れ王座陥落して引退した。


同じく九州出身の長渕剛に「引退してどうするの?」と聞かれ、「不動産業でもやろうかと思います」と答えたが、長渕剛がオーナーとなって世田谷区に戸高ジムを開設した。


戦績26戦21勝(10KO)4敗1分