Andromedaが完成し、そして自作アンプで駆動するようになり、オーディオの音質よりも音楽そのものに没入して聴くことが増えました。その没入感は、まるで小僧の頃にタイムリープしたかのような錯覚を覚えます。

 

オーディオは主として音楽をよい音で聴くための存在なのに、ヘンな話です。音質面で引っかかる点があると、音楽に没入できずに音質ばかり聞いてしまうことが多くなります。そんな呪縛から開放された今、できるだけ音楽そのものに集中する時間を多くとりたいと思うようになりました。

 

本日聴いていたのはこれ。

 

ブルックナー:交響曲第7番ハース版:朝比奈隆, 大阪フィル, ザンクトフローリアンライブ

 

言わずと知れた名盤中の名盤。

 

ただ、過去の私は周囲から凄い凄いと言われても、正直。その真価を理解できていませんでした。なにが凄いのかピンとこない。今日その価値を思い知らされました。この演奏には音楽の神が降臨しています。

 

この録音は、ブルックナーの棺が収められているオーストラリア・聖フローリアン修道院教会でライブレコーディングされました。

 

 

この演奏/録音には様々な逸話と、偶然の奇跡が知られていますよね。

 

まず、第1楽章の終演とともに聴衆から拍手(*)の波が起こってしまったこと。

曲をよく知らない聴衆が勢いで拍手してしまったのでは、などのまことしやかな噂も聞かれますが、誰に対して言っているのでしょう。オーストリアの国民ですよ。彼らはサンダル履きで演奏会に来たりぐぅぐぅいびきを掻いて寝ていることはあっても、曲間に拍手をしてしまうなどの失態は考えられません。今、眼前で起きようとしている奇跡に感激のあまり思わず出てしまった拍手だったのでは?と想像しています。

 

次に、第2楽章が終わった直後、時報を示す修道院の鐘が鳴り響いたこと。

朝比奈先生は鐘が鳴り終わるのを待って、第3楽章のタクトを振り下ろします。

 

しかし、そんな偶然や奇跡の援護射撃がなくとも、改めて聞けるこの演奏は圧倒的でした。

朝比奈先生のタクトはいつもより随分と遅い気がします。ザンクト・フローリアンの長い長い残響音によって譜面が混濁しないよう、わざわざ一次反射の到達を待って、次の一音を鳴らそうとしているようにさえ聴こえます。決して音量の大きくない弦のユニゾンが、天井の高い教会の中で柔らかく長い残響を与えられて、聴いたことのない繊細さと美しさで優しく聴衆へ「降り注いで」来ます。これで何も感じなかったらウソだ。(でも今まで私は何も感じなかったのです)

 

第1楽章だけで既に浮世離れした陶酔世界に十分感銘しているのに、次に25分にも及ぶ第2楽章が畳み掛けます。決して派手な演奏ではない。静かに静かに、水が染み込むようにユニゾンが身体へ流れ込んでくる。光臨とはこういう様を云うのでしょうか。ブラスはいつもの朝比奈先生より随分と大きな音のような気もするが、残響時間が長いせいなのか、ちっともうるさくない。とても柔らかく温かい光の束になって周辺から降り注いでくる。身体が光に包まれるような感覚もあった。

 

私の拙い文書力では的確に表現しきれませんが、前後不覚に陥るほどの感銘を受けました。ずっと解らなかったのに?今日はずっと天を見上げて聴いてしまった。前回「共時」みたいなお話を書きましたが、今日の私は、かの日のフローリアン教会の聴衆と同じ奇跡の時間帯を共存する精神状態に陥ったのではないでしょうか? 

 

そこで「あっ」と思い至った事があります。

 

そうか、オーディオの最終目的はこういう体験にあるんだ。空間や時間を越えて、誰でも共生感覚に到れること。スピーカーの音質だけでこうした体験が出来たわけではないでしょうが、この記録の真価を聞かせてくれたAndromedaに感謝、です。

 

[注* ] 私の持ってるVictor盤では、拍手がカットされちゃってます。この拍手がカットされない盤も売られているみたい。ご参考まで。