今日は来月の広島のサロンコンサートのピアノとの合わせをやった。曲もハッキリと決めずにまったくさらわずに、頭も心も空っぽにして行った。すると音楽の栄養素、アイデアがどんどん染み込んでいく。後はこの形になってきているインスピレーションを練り上げ、そこでさらい込むのだ。今日は凄い発見があった。刺激された。
トランペットというと勇ましい元気なイメージがある。その通り。でもシルクのようなスムーズさ、ヴェルヴェットのようなソフトさもある。それを聴いて欲しいんじゃない。それが好きなんだ笑
聴いたことある曲がないから行かない、ラッパの音数が少ないと損したかのように物足りなそうにすると言う発想はガッカリだ笑
芸術家に取って自らが信じるものは必然である。ジャクソン・ポラックにルノワールを求めたり、エレクトリック時代のマイルスにアコースティックな枯葉を求めるのは間違いだ。
オレも他の人の作品を観に行ったり聴く時は頭を空っぽにし、「期待」という思い込みを捨てる。そして場にある空気を感じ、吸って、お腹一杯になって帰ってくる。そういうもんだ。義理で行くことはない。自分が行きたい気分な時に行きたい物に行く。
家に歩いて帰る時にのんびり歩きながら考えてた。
芸術家を育てるのはシンプルかも知れない。芸術的な環境に触れさせ、その世界で生きるように促し、導くだけだ。そうすれば生徒は勝手に育つ。芸術的発想と感性を持たない人間に芸術を理屈で教えようとしてもダメだ。モノにならない。また、芸術は仲良しクラブじゃないからね。
さて、明日はミスサイゴン二発!
トランペットというと勇ましい元気なイメージがある。その通り。でもシルクのようなスムーズさ、ヴェルヴェットのようなソフトさもある。それを聴いて欲しいんじゃない。それが好きなんだ笑
聴いたことある曲がないから行かない、ラッパの音数が少ないと損したかのように物足りなそうにすると言う発想はガッカリだ笑
芸術家に取って自らが信じるものは必然である。ジャクソン・ポラックにルノワールを求めたり、エレクトリック時代のマイルスにアコースティックな枯葉を求めるのは間違いだ。
オレも他の人の作品を観に行ったり聴く時は頭を空っぽにし、「期待」という思い込みを捨てる。そして場にある空気を感じ、吸って、お腹一杯になって帰ってくる。そういうもんだ。義理で行くことはない。自分が行きたい気分な時に行きたい物に行く。
家に歩いて帰る時にのんびり歩きながら考えてた。
芸術家を育てるのはシンプルかも知れない。芸術的な環境に触れさせ、その世界で生きるように促し、導くだけだ。そうすれば生徒は勝手に育つ。芸術的発想と感性を持たない人間に芸術を理屈で教えようとしてもダメだ。モノにならない。また、芸術は仲良しクラブじゃないからね。
さて、明日はミスサイゴン二発!