昨日は高田剛志チェロリサイタルwithゲスト築地利三郎氏に行ってきた@ムジカーザ。


高田君も何度かオレの演奏会に来てくれたり、オレも彼のCDは持っていたりなんだが、生の演奏を聴くのは初めて。


オレは演奏会に行くときに「期待」という先入観の枠で自分を縛らない。「そうそう、これこれ」を求めて自分の好みに拘るなら家でCDを聴いて自分の理想を脳内再生してりゃいいじゃん、と思うからだ。


生の空間というのは心を空っぽに、そしてオープンにしなければ自分の感性の本質も開かなければ自分も空間とアンサンブルしないしね。批評家精神の客近辺の空気の淀み、虚勢はすぐにわかる笑


さて、プログラムが始まる。


バッハ無伴奏の4番から。自由闊達に時が流れる中で曲の構成が然り気無く明確でとても心地よい。バロック音楽を知ってる人ならどの楽章がどの踊りかプログラムを見なくても解る筈だ。その後、築地利三郎氏が急遽出れることになったので、バッハのヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのソナタ3番を2楽章だけにするとのアナウンス。その場でのプログラム変更はオレも結構やるから全然OK笑


そして築地利三郎氏が登場。御年81歳だが、バイタリティーが感じられ、それが枯れた渋みと絶妙に同化している堂々たる立ち振舞い。


そしてチャイコフスキーの歌曲から始まるのだが、第一声の時の空気の凝縮、彼の空間のつかみかたに息を呑んだ。そしてあの厳粛でありながらもまろみのある表情、そして澄みきった中に深みを湛えたその眼。声質、声量云々とかではなく、その人からその瞬間に出てくる唯一無二の音楽、ザ・サウンド。一発でやられた。


高田夫妻の伴奏も音楽の世界を自然に演出し、しばし魂が解放される。


全部で3曲歌われたのだが、ヤバかった。


うん。


色々自分の音楽人生の中でフラストレーションや葛藤、挫折があってもこういう音楽を自分で創り、または他人の創ったそういう音楽を聴く喜び、それがあれば絶対にどんなに辛くてもやっていけるそういう心の拠り所を持つ自分の再確認が出来た。


2部の小品集は高田君の持ち味が存分に出る。自分の芯をしっかり持ち、歯に衣着せぬ発言もする男だが、本質はナイーブな程に純粋で朴訥。その凝縮されたエネルギーの中に優しさがある。そのエネルギーをグイグイ感じる。


最後はベートーヴェンの3番イ長調op.69。ベートーヴェンの世界って言うのは最近の3分音楽の文化に慣れた人達には冗長に感じられるのかも知れない。「なんか知らないけど高尚っぽい」とか。


決してそんなことはない。


バッハ以前の音楽にしても、「神」の存在が一般市民の生活の中でより浸透し、より絶対的存在だったであろう事や、その後の啓蒙主義等によって自主性が音楽の中で確立されてきた経緯を汲み取りながら音楽の中にあるエスプリを感じとれば色々な物が見えてくるものだ。


その時代の人間の最先端の思想はなんだったんだろう。「歴史」としてその思想を見るのと、リアルタイムで見るのとはまた違う。そしてそれを感じ取った上で今、21世紀に生きる我々は何を感じ取っているのだろう?または、「現在の最先端の思想」を我々は創り、感じ取っているのか?


それらの事を感じさせる。


インスピレーションと魂溢れる、いい演奏会だった。


昨日帰ってきて思った。結局理論、アカデミアの世界は後付けであり、そこに我々の営みの記録を体系化して残すという重要なタスクがあるのだが、我々芸術家は「リアルタイム」に生きねばならない。形骸の踏襲なんて死んだも一緒。