2日前の日記転載。
今日は素晴らしい1日だった。そして自分の常に思っている事を強く思い出させた。
今日のアメリカンブラスクインテットの演奏会は本当に素晴らしいものだった。この団体は室内楽をありのままに王道で演奏する団体である。目を引く派手な演出は何もない。いわゆるアピール度の高いレパートリーをこれ見よがしに演奏したりもしないし、いかにもアメリカンみたいな日本人が勝手に描いているステレオタイプ的なイメージにも乗ってこない。第一次世界大戦後のパリで文化の都として栄えた坩堝の都市のエスプリを受け継ぎ、文化的メッセージを発信する世界最先端の都市の一つニューヨークで揺るぎない音楽を造る5人の紳士達である。
東京公演はない。多分招聘元が公演を売る自信がなかったのか、買い取り公演をする所もなかったんだろう。「聴きたかったなぁ」て言う人は多数いれど、実際に自分から率先して動き、ムーブメントを作ろうとする人の割合は本当に少ない。だからしょうがない。アトランティックブラスクインテットを何度も日本に連れてこようと画策したが、挫折したからわかる。
「わかりにくい」「聴きやすい音楽を」「知ってる曲がない」等の言葉はよく聴く。のど自慢やカラオケ、懐メロ系番組で溢れかえり、マイルス・ディヴィスといえば枯葉やマイ・ファニー・ヴァレンタインという発想の人が多数を占める業界で(政治でいう全く実質的意味のない「世論」に流され、騙される国民と一緒)「聴衆の好み」が勝手に業界により確立、固定されている。それらの存在意義は勿論皆無ではない。ただし、新しいものを産み出してきたエネルギーを持つ人は必ずこの固定概念と差別の壁にぶち当たる。
物事、興味を持つ好奇心があればその事について学ぶのは自然であり、当然である。それが求められるのは果たして「敷居が高い」のか?そうではあるまい。ミーハーな国民性ていうことは、新しい可能性を受け入れるエネルギー、キャパの広さは絶対にあるんだ。
この演奏は、東京の聴衆に聴いてもらいたかった。つまらない固定概念を窓から捨てて、耳をかっぽじって聴いて、感じて欲しかった。
海外オーケストラのプレイヤー達を集めた金管五重奏が日本によく来るが、誤解を怖れずに言うと、室内楽のアンサンブルのレベルが全然違う。室内楽を知り尽くし、そのニュアンスの陰影、表現の振れ幅、内声の絡まりと深さ、これらは一流プレーヤー達が「かなりリハーサルを積む」程度では得られない重みがある。
オーケストラに特有のサウンドの作り方は室内楽のやり方だけではダメだ。それと同じで、オーケストラのサウンドをそのまま室内楽に持ち込んだだけではダメだ。
緻密さとダイナミクス、そしてCDだけ聴いては絶対にわからない情熱、そしてライブ感があるんだ。
5人の演奏は輝いていた。しかし特に今回ケビン・コブの素晴らしいプレイに感動だ。表現のスケールも大きく増しているし、音楽が前に聴いた時より翼を得たように自由でダイナミックである。
イウェイゼンのコルチェスター・ファンタジーは今まで聴いたこの曲の演奏で最も記憶に残る最高の名演だった。
聴衆もその素晴らしい演奏に反応していた。
終わった後サイン会があり、みんなが丁寧にサインをして、にこやかな表情を浮かべていた。
レイがおみやげを持ってきてくれた。最新のアメリカンブラスクインテットの50周年記念の二枚組のCD。そして「ミュージカル・アメリカ」という雑誌の付録にあった過去50年のアメリカンブラスクインテットの完全メンバー表等。
5人みんなが「昨日は素晴らしい一夜だったよ、ありがとう」と言ってきて、固い握手を交わした。ニューヨークでの再会を約して。
その余韻を噛み締めつつ、全国各地から集結したハモーンクラブ会員達と長崎で食事会。楽しくワイワイ語り、和み、これまた素晴らしい時間だった。
幸せな1日に感謝。
生徒達に考えて欲しい。音楽には色々なアプローチ、捉え方があり、それが様々な違う結果を生む。それは音楽の醍醐味の一つだ。しかし、表現の振れ幅が狭いのと引き出しが少ないのを「自分の音楽を貫く」という方向に話を持っていくのは逃げだと思う。
今日の彼らの演奏を聴いてさらにそう思った。
今日は素晴らしい1日だった。そして自分の常に思っている事を強く思い出させた。
今日のアメリカンブラスクインテットの演奏会は本当に素晴らしいものだった。この団体は室内楽をありのままに王道で演奏する団体である。目を引く派手な演出は何もない。いわゆるアピール度の高いレパートリーをこれ見よがしに演奏したりもしないし、いかにもアメリカンみたいな日本人が勝手に描いているステレオタイプ的なイメージにも乗ってこない。第一次世界大戦後のパリで文化の都として栄えた坩堝の都市のエスプリを受け継ぎ、文化的メッセージを発信する世界最先端の都市の一つニューヨークで揺るぎない音楽を造る5人の紳士達である。
東京公演はない。多分招聘元が公演を売る自信がなかったのか、買い取り公演をする所もなかったんだろう。「聴きたかったなぁ」て言う人は多数いれど、実際に自分から率先して動き、ムーブメントを作ろうとする人の割合は本当に少ない。だからしょうがない。アトランティックブラスクインテットを何度も日本に連れてこようと画策したが、挫折したからわかる。
「わかりにくい」「聴きやすい音楽を」「知ってる曲がない」等の言葉はよく聴く。のど自慢やカラオケ、懐メロ系番組で溢れかえり、マイルス・ディヴィスといえば枯葉やマイ・ファニー・ヴァレンタインという発想の人が多数を占める業界で(政治でいう全く実質的意味のない「世論」に流され、騙される国民と一緒)「聴衆の好み」が勝手に業界により確立、固定されている。それらの存在意義は勿論皆無ではない。ただし、新しいものを産み出してきたエネルギーを持つ人は必ずこの固定概念と差別の壁にぶち当たる。
物事、興味を持つ好奇心があればその事について学ぶのは自然であり、当然である。それが求められるのは果たして「敷居が高い」のか?そうではあるまい。ミーハーな国民性ていうことは、新しい可能性を受け入れるエネルギー、キャパの広さは絶対にあるんだ。
この演奏は、東京の聴衆に聴いてもらいたかった。つまらない固定概念を窓から捨てて、耳をかっぽじって聴いて、感じて欲しかった。
海外オーケストラのプレイヤー達を集めた金管五重奏が日本によく来るが、誤解を怖れずに言うと、室内楽のアンサンブルのレベルが全然違う。室内楽を知り尽くし、そのニュアンスの陰影、表現の振れ幅、内声の絡まりと深さ、これらは一流プレーヤー達が「かなりリハーサルを積む」程度では得られない重みがある。
オーケストラに特有のサウンドの作り方は室内楽のやり方だけではダメだ。それと同じで、オーケストラのサウンドをそのまま室内楽に持ち込んだだけではダメだ。
緻密さとダイナミクス、そしてCDだけ聴いては絶対にわからない情熱、そしてライブ感があるんだ。
5人の演奏は輝いていた。しかし特に今回ケビン・コブの素晴らしいプレイに感動だ。表現のスケールも大きく増しているし、音楽が前に聴いた時より翼を得たように自由でダイナミックである。
イウェイゼンのコルチェスター・ファンタジーは今まで聴いたこの曲の演奏で最も記憶に残る最高の名演だった。
聴衆もその素晴らしい演奏に反応していた。
終わった後サイン会があり、みんなが丁寧にサインをして、にこやかな表情を浮かべていた。
レイがおみやげを持ってきてくれた。最新のアメリカンブラスクインテットの50周年記念の二枚組のCD。そして「ミュージカル・アメリカ」という雑誌の付録にあった過去50年のアメリカンブラスクインテットの完全メンバー表等。
5人みんなが「昨日は素晴らしい一夜だったよ、ありがとう」と言ってきて、固い握手を交わした。ニューヨークでの再会を約して。
その余韻を噛み締めつつ、全国各地から集結したハモーンクラブ会員達と長崎で食事会。楽しくワイワイ語り、和み、これまた素晴らしい時間だった。
幸せな1日に感謝。
生徒達に考えて欲しい。音楽には色々なアプローチ、捉え方があり、それが様々な違う結果を生む。それは音楽の醍醐味の一つだ。しかし、表現の振れ幅が狭いのと引き出しが少ないのを「自分の音楽を貫く」という方向に話を持っていくのは逃げだと思う。
今日の彼らの演奏を聴いてさらにそう思った。