さて、東京宝塚劇場の花組公演「麗しのサブリナ」とスパークリングショー「Exciter!」が始まった。ヅカのリードトランペットパートはかなりキツい(それ以上、どっちかと云うと殺人的にキツいらしい
笑)と色々な話は聞いていた。
オケ練の時はエキストラの奏者と交互に吹いているし、ナンバーとナンバーの間に時間がある。DR(ドレスリハーサル)も場当たりとかあるからかなり間に時間がある。なので通せるのは初日公演本番前の通し稽古(ゲネプロ)一発。なかなかスリリングな展開である。
特に「Exciter!」は間髪入れずにドンドン吹き続けるからなかなかトランペット奏者殺し的な部分もあるかも知れない笑 でも非常にハイテンションなショーで57分があっという間に終わる。でもペースは掴めたし、一日二公演エンジンをかなり回しても大丈夫だ。
自分は「ライブ音楽」ならではの臨場感とエキサイトメントを一番大事にしている。だから音を外さないようにうんぬん(誰も外そうとしてるヤツはいないと思うけど笑)は考えずにその場の空気を直感で感じ取りエネルギーをブッ込むハイリスクハイリターンなアーティストでいよう、というスタンスでずっとやっている。その方が楽しい。
多分お客さんとかは、今の録音技術では単発の音を入れたり、編集作業でCDなんぞは幾らでも「完璧」に弄れるのは知らないと思う。また、「ライブ録音」と言うものも複数公演から抜粋継ぎはぎしているのが多々あるのも知らないと思う。所謂「完璧」と定義される演奏でも我々がシビアな耳で聴けばそれは厳密に完璧ではありえないし。
完璧なんてたかだか100%の世界であり、スピリットのポテンシャルに迫る1000%や10000%の世界は表面的な「完璧」さでは見えてこないものだ。その世界が見たかったら聴き手も「なんとなくな好み」の世界を超えて勉強し、感じる事をさらに高めないといけない。
私は録音は「記録」として捉えている。その場にある生きたサウンド、そこでしか感じられない空気、空間。それがライブミュージックの醍醐味であり、我々が音楽の道を歩む理由だ。その空間を造りだし、聴き手と共有する。
例えば、恋の告白をする時にプラン通りにスラスラとセリフを読むように完璧に演出すればいいのか? いやいや、現実はそんなに綺麗事ではない。色々どもったりつっかえたり、自分の思うように言えないこともある。しかし、そこに成就の要素があればそれは成立するものであり、完璧さがそれを保証するものではない。人間だれしもがその道を通り、成長の過程を楽しんである。
とは云えども、我々プロフェッショナルは、自分達の仕事を高める為に地道に、他人から見れば無駄に見えるような作業を1日数時間は必ず費やしているものである。トランペットが難しいなんて言っても聴いてるお客には関係ないからね、そんなの笑 ただ、人間の作業と一発の勝負に精神を研ぎ澄ませるシビアな作業だからどうしても出来不出来は生じるかも知れない。
それを狭義な先入観、「完璧」とか「プロはこうあるべき」の固定概念で批評家気分になって人の事をどうこう言っても誰もあなたの事を偉いとは思わないし、そのダブルスタンダードに気付くべきである。よく「一回こっきり」「一期一会」等と云う言葉を安易に使う人もいるが、そういう人に限って必ず自分達はセカンドチャンスの恩恵にあずかっている事を忘れている。「一期一会」の意味をよく考えたらその本来の意味が解るはずだ。言葉の形骸に対して惰性であってはいけない。
金は空間と現実的経費に対する対価であり、客の立場的優位を位置付けるものではない。
演奏者、客、空間、それらが交じり合ってアンサンブルをする事によって我々全てがそのファンタジー溢れる世界を共有できる。
みんなが自然に肩の荷を下ろし、謙虚に自然体になる。これが大事かな。
笑)と色々な話は聞いていた。オケ練の時はエキストラの奏者と交互に吹いているし、ナンバーとナンバーの間に時間がある。DR(ドレスリハーサル)も場当たりとかあるからかなり間に時間がある。なので通せるのは初日公演本番前の通し稽古(ゲネプロ)一発。なかなかスリリングな展開である。
特に「Exciter!」は間髪入れずにドンドン吹き続けるからなかなかトランペット奏者殺し的な部分もあるかも知れない笑 でも非常にハイテンションなショーで57分があっという間に終わる。でもペースは掴めたし、一日二公演エンジンをかなり回しても大丈夫だ。
自分は「ライブ音楽」ならではの臨場感とエキサイトメントを一番大事にしている。だから音を外さないようにうんぬん(誰も外そうとしてるヤツはいないと思うけど笑)は考えずにその場の空気を直感で感じ取りエネルギーをブッ込むハイリスクハイリターンなアーティストでいよう、というスタンスでずっとやっている。その方が楽しい。
多分お客さんとかは、今の録音技術では単発の音を入れたり、編集作業でCDなんぞは幾らでも「完璧」に弄れるのは知らないと思う。また、「ライブ録音」と言うものも複数公演から抜粋継ぎはぎしているのが多々あるのも知らないと思う。所謂「完璧」と定義される演奏でも我々がシビアな耳で聴けばそれは厳密に完璧ではありえないし。
完璧なんてたかだか100%の世界であり、スピリットのポテンシャルに迫る1000%や10000%の世界は表面的な「完璧」さでは見えてこないものだ。その世界が見たかったら聴き手も「なんとなくな好み」の世界を超えて勉強し、感じる事をさらに高めないといけない。
私は録音は「記録」として捉えている。その場にある生きたサウンド、そこでしか感じられない空気、空間。それがライブミュージックの醍醐味であり、我々が音楽の道を歩む理由だ。その空間を造りだし、聴き手と共有する。
例えば、恋の告白をする時にプラン通りにスラスラとセリフを読むように完璧に演出すればいいのか? いやいや、現実はそんなに綺麗事ではない。色々どもったりつっかえたり、自分の思うように言えないこともある。しかし、そこに成就の要素があればそれは成立するものであり、完璧さがそれを保証するものではない。人間だれしもがその道を通り、成長の過程を楽しんである。
とは云えども、我々プロフェッショナルは、自分達の仕事を高める為に地道に、他人から見れば無駄に見えるような作業を1日数時間は必ず費やしているものである。トランペットが難しいなんて言っても聴いてるお客には関係ないからね、そんなの笑 ただ、人間の作業と一発の勝負に精神を研ぎ澄ませるシビアな作業だからどうしても出来不出来は生じるかも知れない。
それを狭義な先入観、「完璧」とか「プロはこうあるべき」の固定概念で批評家気分になって人の事をどうこう言っても誰もあなたの事を偉いとは思わないし、そのダブルスタンダードに気付くべきである。よく「一回こっきり」「一期一会」等と云う言葉を安易に使う人もいるが、そういう人に限って必ず自分達はセカンドチャンスの恩恵にあずかっている事を忘れている。「一期一会」の意味をよく考えたらその本来の意味が解るはずだ。言葉の形骸に対して惰性であってはいけない。
金は空間と現実的経費に対する対価であり、客の立場的優位を位置付けるものではない。
演奏者、客、空間、それらが交じり合ってアンサンブルをする事によって我々全てがそのファンタジー溢れる世界を共有できる。
みんなが自然に肩の荷を下ろし、謙虚に自然体になる。これが大事かな。