私は、というか、私と姉は小学生から中学生の間、土曜日の午後や長期休暇を父方の祖父母の家で過ごした。
祖母は戦争で台湾に疎開したことがあって、看護師をやっていたことがある人で、
家事が完璧にできて、年をとってもきちんとお化粧をしていて、
好奇心旺盛の聡明な人というイメージがある。
私の基盤、礎、原液、そんな人だ。
祖母はいわゆるイメージするところのおばあちゃんではなく、少し風変りだった。
スピリチュアルが好きで、なんでも工夫して手作りし、いきなり独学で英語を勉強したり、三味線を勉強したり。
ここまで書いて、本当に自分のベースなんだと思う。
夏休みは、つゆくさをとってその花のしぼり汁でハンカチを染めたり。
いきなり想像の食べ物を作ったりする。まだ地元にはなかった「たこやき」とかを想像で作っていた。
もちろんタコ焼き器も買って。
ジュースはたまに祖母がリンゴをすってガーゼでこし、本当のリンゴジュースを作ってくれた。ミカンの時もあった。
フルーツはいつも丁寧に剥かれて、きれいに並べられ食卓に出ていた。
ありとあらゆる飾り切り。
おにぎりは大きくて丸かった。海苔が綺麗にまかれている。アルミホイルに包まれていて、具材がアルミに書いてある。
そばつゆも手作りで、それで食べる素麵がたまらなく好きだった。
土曜のお昼は祖母がラーメンを作ってくれるのだけど、インスタントの袋麵なのに、乗せる具材の鉄のフライパンで作る野菜炒めが完璧においしすぎて、私の大好物だった。
今でも食べたい。
祖母がやっていたことは間違いなく「食育」だった。
私は「食育」という言葉があまり好きではない。この行為にわざわざ名前なんてつけるの?って思ったから。
「愛」でいい。料理は愛だから。
私たち姉妹はこのスーパー主婦から、料理を習い、掃除を習いしたので本当にありがたく思っている。
中学生から本気で母親の料理の腕を二人は抜いたと思う。
姉は料理の仕事に就いた。私はお家の料理人になった。父が「家族の中で一番料理がうまい」と言ってくれた。
私の愛読書は祖母の愛読書であった「今日の料理」だった。お菓子作りもやりはじめた。
なので嫁入り前に料理学校へ通う友達が不思議でたまらなかったし、
仕事場の先輩が「料理をしたことがない」といったことにも結構ショックだった。
私はスパルタの祖母がいてラッキーだった。
今めちゃくちゃ手抜きしているので、きっと祖母は笑っているだろう。
本当にすまん、祖母よ。
だけど、とんかつの衣のつけ方も、カキフライの衣のつけ方も、パイナップルの皮の剥き方も私は忘れてなかった。
小学生のころ習ったものは体が覚えている。
祖母は勉強家なので料理の雑誌や本がたくさんあって、丁寧な文字で日記のような独り言が書いてあるのだ。
それを読むのも好きだった。
〇月〇日夕飯につくるが、おじいさんにおいしくないといわれた。とか。塩辛いといわれた。とか。
祖母の文字も好きだった。
そんなもんで、結婚した時に買ったのが今日の料理の辞典だった私なのである。
今では雑誌は読まないし、適当にしか作れない。私の料理のピークは高校生の頃だ。
お正月の伝統料理も、祖母の味とは程遠い。上品さが無い、料理にも出る私の品のなさ。
新しい料理グッズを買うと祖母に見せたくなって、心の中で話しかける。
キャベツのピーラー!これすごいんだよ!と。きっと祖母は興味があるやつだ。
よく母親の料理が恋しいというが、私の場合祖母の料理が恋しい。
キノコを炒めただけでうまいのだ、祖母は。
とっても疲れたり悲しいことがあった時の夢は、
冷蔵庫いっぱいにタッパーがあって、タッパーには日付がテープの上に祖母の字で書いてあって、
祖母が立っていていつもの青い花柄のワンピースを着ていて、首からタオルを下げて、
「みこさん、ここにごはんつくったからたべなさいね」と言う。眼鏡の奥に、柴犬みたいなかわいい目が見える。
私はありがとうと言って手を伸ばす。いつもそこで目が覚める。
くっそー、と私はいつも声に出して言う。
この夢は、母方の祖母パターンもあって、おばさんも登場する。
母方の祖母も料理の上手な人で、ばあちゃんは味噌までこしらえていた。
ばあちゃんの味噌の味噌汁が恋しい。
ここ数年味噌汁にハマっている私は、ばあちゃんの味噌汁が飲みたくて仕方ない。
そんな二人を見て育った私。食育を叩き込まれ、丁寧に下ごしらえをしながら作る夕飯のお手伝いをし、
たくさん勉強した。
偏食の息子に私もたくさんの手作りをしたし(朝から中華料理屋並みにシュウマイと春巻きを作った時もあった。それしか食べなかったから)今も下手なりにしている。
祖母には感謝しかない。
祖母については話がたくさんある。そのくらい影響された。
この文章を見ていた息子に今「お母さんは料理上手だよ☆」いただきました(泣。