PEUGEOT 206 WRC 2003年WRC参戦記録③
【サンレモ】10月1日~10月5日
1:グロンホルム 206 NDQ 75 SS14 リタイア
2:バーンズ 206 NLM 75 7位・+7分9秒5
3:パニッツィ 206 NLL 75 2位・+28秒3
グロンホルムとバーンズおよびパニッツィをワークスノミネートとした。新しいダンパーセッティングとアンチロールバーのマップを装備。
上位につけるものの精彩を欠くグロンホルムは、ローブとマルティンが繰り広げるスピードバトルに追いつけず。そして3位で迎えた最終SS、カットスリックでアタックをかけるも壮絶なクラッシュで リタイアした 。サスペンションのセッティングが決まらないバーンズは、終始パフォーマンスに冴えが見られなかった。しかし結果的に7位を得て、2点差ながらもドライバーズ選手権の首位を守った。 序盤に決まらないサスペンションセッティングで大きく出遅れたパニッツィは、 総合5位に甘んじていたものの、突然の雨にたたられた最終盤に 千載一遇のタイヤ選択(レイン用のインターミディエイトタイヤTAを唯一チョイス)が当たり、たったふたつのステージで1分30秒以上の差を引っ繰り返して 2位となった。
【ツール・ド・コルス】10月16日~10月19日
1:グロンホルム 952 NVB 75 4位・+1分9秒2
2:バーンズ 286 NNN 75 8位・+2分36秒7
3:パニッツィ 283 NNN 75 6位・+1分58秒7
グロンホルムとバーンズおよびパニッツィをワークスノミネートとした。事前テストの結果をふまえてダンパーとアンチロールバーのセッティングを変更。
Leg1をプジョー勢最上位の5位で終えたグロンホルムであったが、開発の止まった206WRCでは 首位争いに加われず。SS10ではスピンして30秒を失うなど、精彩を欠き4位でラリーを終えた。 バーンズはセッティングの決まらないマシンで苦戦、手探りのタイムアタックが続いた。 それでも上位陣とのタイム差を僅かとして期待を持たせたが、終わってみれば辛うじて入賞となる8位に沈む。 この結果、ポイントリーダーはサインツ。以下はソルベルグ、バーンズ、ローブと続くランキングとなった。 優勝候補に挙げられながらも、決まらないセッティングでLeg1を11位と低迷したパニッツィ。 時折激しい雨となったLeg2でも、思い通りにならないマシンと格闘することになり不本意な6位に留まる。 Leg3においても、その順位を上げられず初日の遅れを取り戻せないままの結果となった。
【カタロニア】10月23日~10月26日
1:グロンホルム 334 NQZ 75 6位・+1分29秒1
2:バーンズ 950 NVB 75 SS19 リタイア
3:パニッツィ 945 NVB 75 1位・3時間55分9秒4
グロンホルムとバーンズおよびパニッツィをワークスノミネートとした。前戦コルシカに準じた仕様であるが、サスペンションは改良型を組み込んでいる。新しいスペックのダンパーとアンチロールバーを使用。
グロンホルムは序盤で選んだタイヤ(中間温度域のコンパウンド2)が柔らかすぎて14位まで後退。その後、僚友パニッツィに倣ったタイヤ選択とサスセッティングで復調するも、6位が精一杯のラリーとなった。前戦でポイントリーダーから陥落したバーンズは、Leg1を6位と2番手グループで食い下がった。Leg2以降はサスセッティングを合わせながら6位をキープする展開とするも、絶対入賞が求められたこのラリーで痛恨のリタイア(SS18-雨のステージでコースアウトし、右フロントタイヤを破損)を喫した。この結果、ポイントリーダーはローブとサインツ。以下はソルベルグ、バーンズと続くランキングとなった。Leg1序盤でタイヤ選択(寒冷用コンパウンド0)が合わなかったパニッツィであったが、気温の上昇と共にマシンとタイヤのバランスが改善。ベストタイムを SS6~7で 刻み、上位に進出した。続くLeg2で3位まで浮上(SS9&11-ベストタイム/SS10-汚れた路面に苦戦/SS12-2番時計/SS13-マルティンに逆転を許し、総合2位から3位に後退/SS14~15-サスセッティングの変更が裏目となりトリッキーな挙動に悩まされる/SS16-ステージ後半に失速)すると、激しいタイム合戦を繰り広げてきたマルティン(Leg3開始時から続くブレーキ不調&首の痛みで失速)を Leg3の SS19で逆転。そして、雨が降った最終SS。 ハードなコンパウンドのタイヤを選択した 31秒先のローブを サスペンションを柔らかくし、タイヤのコンパウンドを超ソフトとしたセッティングで 一気に逆転。ダブル逆転王座(プジョーのマニュファクチュアラーズとバーンズのドライバーズ)のチャンスを残す殊勲の勝利をもぎ取った。
【グレートブリテン】11月5日~11月9日
1:グロンホルム 943 NVB 75 TC3A リタイア
2:ロイクス 206 NLM 75 6位・+8分6秒5
3:ロバンペラ 624 NZT 75 SS16 リタイア
グロンホルムとロイクスおよびロバンペラをワークスノミネートとした。バーンズは急病で欠場-11月2日夜、翌日からのレッキに臨むため、ガーディフに向けてポルシェを運転中に突然失神。同乗のマルコ・マルティンの機転で大事に至らなかったが、ラリー出場は困難と診断された。搬送されたニューポートの病院では異常が発見されず退院したが、ヒルトンホテルのフロントで再び失神。運ばれたガーディフの病院で再検査の結果、悪性脳腫瘍の中でも治療の難しい星状細胞腫と判明した。 なお代役として、プジョーへの移籍が決まっていたフレディ・ロイクスが急遽指名された。 マシンはオーストラリアのスペックに準じた仕様となっている。(アンチロールバーはパッシブタイプ) ディファレンシャルのマッピングを改良し、ドライブのしやすさを重視するセッティングとした。
グロンホルムはSS4でコーナーをカットした際、イン側の丸太に当たってステアリングを破損。フロントタイヤを曲げながらステージを何とか走りきるも、ロードセクションで警察に止められリタイアとなった。タイトル防衛の最後の砦と目されたロバンペラであったが、決まらないサスセッティングでタイムが伸びず。優勝争いにも絡めず迎えた最終日、SS16でトランスミッションのトラブルが出てリタイア。わずかなテストだけでラリーに臨んだロイクスは、206WRCのドライビングがつかみきれずSS4でスピン。固めの足周り(グロンホルムやロバンペラのセッティングをベースとしている)を柔らかく変更してからはポイント圏内を堅実に走り、6位でフィニッシュした。
コラード・プロベラ:シーズン回顧
【両方のタイトルを失う屈辱を味わいましたが...】
2003年は、バカげたミスが多かった。組み立てる際の間違いとか、確認不足とか。その意味で、全体的なチーム力が落ちていたと言えるね。一方でライバルたちは、メキメキと力をつけていた。たとえばシトロエンだが、フル参戦1年目とは思えないほど抜群の信頼性を誇っていた。それまでの数年間、準備に充分な時間をかけていた(*1)のが効いたね。それからフォードがバージョンアップ(*2)して、これまた選手権をかき回してくれた。あとは、うちのドライバーの問題だな。グロンホルムはいくつかのラリーで、彼らしい走りが出来なかった。本当なら勝てていたのに、2位で終わったラリーが少なからずあったね。(*3) ロバンペラも、自分の持ち味をすっかり無くしていたし。そしてバーンズだが、今になって思うと、既にシーズンの早い時点から病気の影響が出ていたのかもしれない。それを押して走っていたのかもしれないと考えるたびに、悲しい気分に襲われる。最後にパニッツィだが、我々が共に戦った最後のシーズンは、決して順調に行かなかった。2003年のパニッツィは、ちゃんと走れなかったし、時には説明も十分ではなかった。とはいえ我々の戦闘力は、決してシトロエンに引けは取っていなかったと信じているよ。206WRCは合計4勝しているが、これはクサラとインプレッサに並ぶ勝利数だしね。
しかし、安定性の面で、我々は劣っていた。(*4)
【勝ち続けたことによる油断やモチベーションの低下は...】
どちらも無かったと思うね。確かにライバルたちとの差はどんどん縮まり、タイトル防衛は簡単なことではないだろうとは思っていた。それにマリオ・フォルナリス(206WRCの 全面的な 開発に関わった人物)の移籍もあった。彼が出て行った直後は、内部が若干ギクシャクして、前半の開発にも多少の影響は出た。それも3ケ月もしないうちに、落ち着いたけれどね。しかしモータースポーツの世界で、それだけの時間のロスは取り返しのつかないものとなる。我々は、2003年の失敗から多くを学んだよ。勝ち続けたことで、傲慢な気持ちも芽生えていたかもしれない。それに冷や水をぶちまけて、謙虚さを思い出させてくれた1年だった。
(*1)サインツとマクレーは移籍初年度、マキネンとバーンズは移籍2年目であったのに対し、 ローブやソルベルグはチーム加入後3年以上のキャリアがあり、マシンとの完全な一体感を得ていた。
(*2)クリスチャン・ロリオー(スバルから移籍)が手掛けたフォーカスWRC03は、軽量化と低重心化に加えて電子制御システムやエンジン吸気加圧システムで武装されていた。
(*3) エンジンパワーが頭打ちの反面、タイヤやアクティブ制御が極端に発達したWRカーにはドリフトを少なくし、速度をできるだけ殺さずにコーナーリングすることが最適な走法 となった。 これを実行するには、マシンへの理解深度と完璧なセッティングが必要となる。ベテラン達はリヤ主体からフロント主体へと変化したドライビングスタイルの変化に呼応することができず、古いタイプ(マシンをスライドさせながら巧みにドリフトコントロールするスタイル) のドライバー のままと言えた。
(*4)開発が止まりアドバンテージを失った206WRCのハンデをカバーすべく、余計にハードプッシュしたことが信頼性の悪化につながっていった。