チェザーレ・フィオーリオの率いるランチア・ワークスチームのエースは1976年もサンドロ・ムナーリ。フィオーリオと長く苦楽を共にしてきたイタリア人ドライバーである。しかし、ナンバー2の位置に甘んじていたスウェーデン人ドライバーのビヨルン・ワルデガルドにもトップを走れる自信と実力は充分にあった。
サンレモ・ラリー、最終のSS37。ムナーリをリードしていたワルデガルドにモンテカルロと同じようなチームオーダーが出されていた。「スタート前に4秒待つように」と...。自分が築いてきたリードだったが、ワルデガルドは正確に待って猛然とスタートしていった。

 

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第14回サンレモ・ラリーは1976年の世界ラリー選手権の第8戦に組み込まれていた。ここまでランチア・チームはモンテカルロ、ポルトガルで優勝するなど62点を獲得し、2位のオペルに20点の差をつけて選手権を有利に戦っていた。

 

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【第14回サンレモ・ラリー】
サンレモの街を基点に、北イタリアの山々を駆けめぐるスペシャルステージラリー。(モンテツェッポウの山場を含むリグュリアン海岸の北部が舞台となっている。)競技は2ステージ制で、第1ステージに26ヶ所、第2ステージに11ヶ所のSSが設定され、その合計距離はコース全長1509kmのうち850kmを占めている。そして、この内のダート部分はわずか10%にも満たない65kmの区間だけで、後は全て舗装路のステージであることが大きな特徴である。ラリーは10月6日午後5時にサンレモをスタートし、第1ステージは7日の午後6時にゴールする。サンレモで丸1日のレストを取ったのち、8日午後7時に60台で第2ステージを開始。そして9日朝10時に全ての競技を終了する。
 

 

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【1976年世界ラリー選手権】
1976年の選手権は、緒戦のモンテカルロ(1月)からスウェーデン(2月)、ポルトガル(3月)、サファリ(4月)、アクロポリス(5月)、モロッコ(6月)、1000湖(8月)、サンレモ(10月)、ツール・ド・コルス(11月)、RAC(11月)の全10戦で構成されている。この年はメイクスのみ(ドライバーに選手権が掛かるのは1979年から)で争われ、前年同様にランチアがストラトスを駆って圧倒的な強さを見せていた。ゆえに、ひとつのラリーでランチア・チームが上位を独占することが頻発してしまい、チームのエースを勝たせるという「チームオーダー」が生まれる素地ともなった。特に1976年緒戦のモンテカルロにおけるムナーリの勝利は、ワルデガルドの演出された敗北によるものであったと広く知られている。つまり、ムナーリを勝たせよとの監督命令にワルデガルドがチームのためにとビジネスライクにトップの位置を譲ったのである。
 

地元のラリーにアリタリア・ストラトスを名乗るワークス・ランチアは、強力な布陣を施いてきた。ここ数年、最高のパフォーマンスを発揮するスーパーカーのストラトスを最も巧みに操るムナーリ、ワルデガルド、ピントのワークスドライバー3名を揃えたのである。

 

 

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前年のサンレモで試みた水冷ディスクブレーキが禁止されて特に目新しい変化はなかったが、それでもV6エンジン24バルブのキャブレターチューンで約275馬力を発生するマシンは、他のマシンに比べて大きなアドバンテージを保っていた。使用タイヤはむろんピレリだが、舗装路の多いサンレモのコースにあたり新たに開発されたスリックパターンのP7も用意され、タイヤ面でも抜かりは無い。

 

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第1ステージにおいて、トラブルで消えて行くフィアット131やオペルカデットを尻目にワークス・ストラトスは順調に首位グループを築き上げていた。SS1から8までをムナーリが取れば、SS10から18までをワルデガルドが取り戻す。両者はその後もお互いに譲らず、激しいトップ争いはSS26まで続いた。

 

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そして、第1ステージ終了後にワルデガルドは  「最初の夜は非常にファンタスティックだった。私がムナーリを数秒リードしたかと思うと、次のSSでは彼が私に数秒先行するという、抜きつ抜かれつの自分でも胸のすくような戦いだった。これこそスポーツだと思ったね。」と、チームメイトとの戦いを振り返った。

 

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トップのムナーリ、21秒差でワルデガルド、3位にヴェリニ(フィアット131)、以下ピント、トニーと続く順位で臨んだ第2ステージでも、ストラトス勢の快走は続く。SS27から29までをワルデガルドが最速タイムをマークしてトップに立てば、SS30と31でムナーリが再びトップを奪い返す。

 

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ワルデガルドはムナーリのタイムの事しか考えなかったし、ムナーリの方でもワルデガルドの事しか眼中になかった。こうして二人の差は常に数秒前後という緊迫した展開へ突入して行く。一方、ピントもヴェリニと3位を激しく争っていたが、こちらの方はヴェリニのコースアウトで決着がついた。

 

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SS32はワルデガルド、SS33はムナーリと、ドライバーの名誉を賭けたレース並の争いはチーム監督のフィオーリオにとって頭の痛い問題となっていた。「エースドライバーのムナーリをトップに立たせて収拾を図ったモンテカルロのようにチームオーダーを、またここでも指示しなくてはならないのか...。」

 

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悩んだ末にフィオーリオはラリー最後の3SSで競い合うという決定を下したが、これが長すぎるということで最終SSのみで決着させるというものに変更された。つまり、「最終SSをイコールコンディションでスタートし、ここで速かった者がラリーの勝者になる。それまではお互い90%の力で走る。」ということで二人の了解を得たのだった。

 

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